137 キズアト
137 キズアト
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「身体の傷はもう大丈夫?」
ハイ、マスター、と元気よく答える少女に
アズライトは少し困ったように首を傾げた。
「僕のこと、マスターなんて呼ばなくてもいいんだよ」
「でもでも・・・」、しおりはそう言って
「マスターは、マスターです。」やはり困ったように彼女の主人を見上げる。
山中の泉より南へと少しく下った山道の途中で
向かいあう二つの人影――アズライトとしおり――は
それだけ言うと互いに黙り込んでしまう。
二人を囲む木々の間をそよ風が陽光はじくクチクラをさわさわと揺らして通り抜け、
彼らの頬を軽く撫でながら吹き抜けてゆく。
風があたりにわだかまった血の匂いと、それに混じったほのかな緑の匂い、
そして少女の甘い香りを運びアズライトの鼻腔をくすぐる。
「僕はさおりの好きなように呼んでくれたほうが、嬉しいな。」
頬を掻きながらアズライトはためらいがちに提案してみる。
その言葉にしおりはわずかに口を開きかけるが、
少し迷ってまた恥ずかしそうに口をつぐんでしまった。
ちらちらと主人のほうを伺い見るが視線が合うとすぐに目をそらす。
再び風が吹き、また甘い匂いがする。
つぎに主人と目が合ったとき、しおりは意を決して言った。
「だったら、あの…えと………その……お……おっ…」
顔を真っ赤にして、再び口ごもる。
「お?」
アズライトが先を促すように繰り返すと、しおりは目を閉じ深呼吸をし、
「おにーちゃん!」
小さな両の手で刀の柄をきゅっと握り締め、半ば叫ぶようにして言う。
「お…おにーちゃんって呼んでも…いいですか、マスター………?」
消え入るようなか細い声は言葉尻になるほどに声は小さくなってゆく。
愛らしい瞳は潤み大粒の涙が浮かんでいる。
ややあって、アズライトはとまどいながらもゆっくりとうなずいた。
再び照れたように頬を掻く。
「さおりがそれでよければ……」
しおりはその言葉にパッと顔をほころばせると、
「えへへっ、おにーちゃんっ♪」と声を弾ませて飛びついてきた。
屈託のない無邪気な笑顔に、思わずアズライトも破願する。
少女がおにーちゃん、おにーちゃんと小さな声で甘えるようにくり返して
きゅっと抱きしめてくる。
アズライトはしおりの頭におずおずと手を伸ばすと、恐る恐る頭を撫でてやった。
そうするのがふさわしい気がしたからだ。
突然のことにしおりは一瞬身を震わせたが
すぐに気持ちよさそうに目を細めるとさらにぴったりとしがみついてきた。
この少女に自分は慰撫されているのだと思った。
そして、自分にはそんな資格はないのだとも思った。
「あ…」
「え……?」しおりの漏らした一言にアズライトはわれにかえった。
今までじゃれついて微笑んでいたしおりがうつむいて表情を曇らせている。
「どうかしたの?」
「あの…もうひとつわがまま、いいですか?」
上目遣いでたずねてくる。
「ん、何?」
「どこかで体を洗いたいな…」
いろんな体液で汚れた自分の体とワンピースを悲しげに見る。
「ああ、うん、そうだね。それじゃ、えーと、鬼作さん?」
安心させるようにもう一度軽く頭を撫でてやると、
首だけを動かして茂みのほうへ呼びかけた。
(まったく、おせぇんだよ、アズやんよぉ。待ちくたびれちまったぜぇ。)
事の成り行きを独り静観していた鬼作は心の中で悪態をついた。
が、放置されていた不満などはおくびにも出さない。
(ふぁーすと・いんぷれっしょんは大事にしねぇとなぁ。)
裏腹に、何でございましょう、などとうそぶきながら
藪をワシャワシャと揺らしながら足取りも軽くまかり出でて、
揉み手でもしかねないほどに愛想のよく二人に近づいていった。
藪から二人までの距離はそれほど遠いものではない。
しおりがそこから出てきた男を認めると間もなく、鬼作が二人の前に辿り着いた。
とその瞬間、空気が震えはらりとその前髪が数本宙を漂った。
そして、驚いて尻餅をついた鬼作の喉元には
いつの間にかどす黒い血がこびりついた刃先が向けられている。
「ウォッ!?」
息を呑んで刀の先を見つめる鬼作の脇腹あたりを噴き出した大量の嫌な汗が這いおちる。
「…………」
その刃の先にいるのは、無言のまま威圧的に不吉な切っ先を向けているのは少女。
その少女の凍てつくような、燃えるような視線に射抜かれ、
鬼作は魔物に魅入られたかのように動けないでいる。
「今度は逃がさない」
そう言うと、少女の瞳に危険な光が宿り、
鬼作の目の前で刃が鈍く閃きゆらりと揺れる。
「ち、違うんだよ、さおり。この人は違うんだ。」
「でも、おにーちゃん!」
「この人とさっきの男の人は別の人なんだ。」
「……………………………え?」
目をまん丸にして、キョトンとする。
「ごめんなさい、鬼作さん」
特徴ある彼女の耳をしゅんとさせ、しおりはぺコリと頭を下げた。
アズライトは己の背に隠れて畏まるしおりの髪を優しく撫でつけてやる。
「い、いいんでございますよ。さおりさん。
誰しも間違いはあるものでございます。」
人当たりのよい笑みを浮かべた鬼作は首にかけたタオルで噴き出した汗を拭ぐう。
「本当に大丈夫ですか,鬼作さん?」
おずおずと尋ねるアズライト。
「ええ,ええ,ご心配には及びません。
こちらこそ咄嗟のこととはいえ、とんだ醜態をさらしてしまいまして。
……ところでアズライトさん、何か鬼作めに御用がおありでしたのでは?」
計算高い男はあくまでやわらかな物腰を崩すことなく慇懃に受け答えする。
「ハイ、」と言って少しためらいがちに目を伏せて視線を外す。
「おっしゃりにくいことでしたらばこの鬼作、
無理に聞き出すような無粋はいたしませんよ?
人には言いたくないことの一つや二つはございますものです。」
「いえ、言います。聞いてください。」
眉根を寄せて、小刻みに震えるアズライトの顔は幾分蒼ざめて見える。
あの時と同じ空気だとしおりは思った。
そして今度もまた何も出来ないことがひどくもどかしかった。
だからしおりはただ黙って主人の服の裾をきゅっとつかんだ。
「この子・・・今僕が助けた子なんですけど…僕の」
喉がコクリと動く。
しばしの沈黙の後,震える声でアズライトは吐き出すように呟いた。
何か言いたげ見上げる少女と悄然とうなだれるアズライトの目があう。
少女は主人に彼の痕を見た。
主人は少女に己の業を見た。
しおりの胸はちくりと痛んだ。
「ふむ、なるほど,そういうことでございましたか。」
告白のあと、筆談に戻ることを提案した鬼作は、
しきりと首を縦に振りながら素早くペンを走らせている。
「…では,とりあえず先ほどの泉に戻り、
そこで水浴びなどなされてはいかがでございましょう?」
告白を聞いても別段責めるでもなく、かといって慰めるわけでもない。
何気ない風を装ってアズライトの心をほぐしにかかった。
そして、その「何もおっしゃらなくても結構です。」という態度が
いまのアズライトにはたまらなく心地がよかった。
そして彼は、傍らで自分のことを不安げに見つめる少女ために、
自分がこの少女から奪ったもののために出きるだけのことはしてあげようと思った。
「いっくよーーー、おにーちゃんっ♪」
大はしゃぎで言うと、しおりは泉の中に立つアズライトに跳びつく。
「わっ!?」
一糸もまとわぬ格好の少女を何とか受け止めたアズライトだが
勢いあまって大きな飛沫を上げて二人とも倒れこんでしまう。
「ぷはっ、いきなり飛びついたら、危ないよ。」
「はーい、ごめんなさい。おにーちゃん。」
ぺろりと舌を出して、悪戯っぽく笑うしおり。
悪びれたところのない少女を見て、アズライトは少し苦笑した。
――いまをさかのぼること数分。
しばらく山道を登り、泉を目の当たりにしたしおりは
鬼作に「見張り役」をお願いした。
その提案に最初はしぶっていた鬼作だが
アズライトの「お願いできませんか?」という意外な申し出は無碍には出来なかった。
(最強のりーさる・うぇぽんずの機嫌を損ねるなんてのは阿呆のやるこったからなぁ)。
さりげなく、しかしたっぷりと恩を着せることにも抜かりなく、彼は承諾した。
――というわけで、自然彼らはいま二人きりである。
互いに裸なのだが、少女の方はけろりとした顔で
青年の肩に頭をもたれさせてご満悦である。
一方の青年は隣の少女のあられもない格好に頬を赤らめて
できるだけそちらを見ないようにあたりの風景に視線を走らせている。
夕焼けがその最後の光であたりをやわらかく包み込むなか、
二人は仲良く肩を寄せて泉につかっている。
「あの……」
しおりが自分の膝小僧を眺めながら小さな声で傍らのアズライトに話かける。
「おにーちゃんは、さおりのこと、キライ?」
「え?」突然の質問にしおりのほうに向き直り、あわてて目をそらす。
「そんなことないよ、どうして?」
「だって、さっきからさおりのほう、ちっとも見てくれないんだもん。」
頬を膨らませてうつむいてしまう。
「え、いや、だって。その、それは…」
「キライ、なの?」
たずねるしおりは涙声になっている。
「キライじゃないよ。」
アズライトはじっとしおりの目を見て答えた。
「キライじゃ、ないよ。」もう一度繰り返す。
「ア・・・」真摯な眼差しで瞳を覗き込まれ、しおりはさっと頬を赤らめる。
そして、はにかむように笑った。
「おにーちゃんとお風呂、なんだかとっても久しぶりな気がするね?」
先ほどより体を密着させて座るしおりの言葉は少しアズライトを困惑させた。
「初めて…だけど」
「え………?」
「さおりといっしょに、その、こういう事するの初めてだと思うんだけど…」
今度はしおりが困惑する番だった。
「え、えーとぉ。
そか…、そうだよ…ね。
どうして久しぶりだなんて思っちゃったんだろ?
他の人のことと間違っちゃたのかな?」
しおりはえへへと笑った。
アズライトは悟った、これもまた己の罪なのだと。
だから、泣きそうになりながらもできる限りの笑顔を浮かべて、
「髪、洗ってあげようか?」と言ってみる。
「ホント!」
無邪気に喜ぶ少女の笑顔が余計にこたえた。