189 『有る程の菊抛げ入れよ棺の中』

189 『有る程の菊抛げ入れよ棺の中』


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それは一瞬の出来事だった。
二人の間にはまだ情交のあとの親密な空気が残っていた。
知佳は自分の秘密を話してみようかと思っていた。
そして、どうやって切り出そうかと考えていると、
恭也が「行きましょうか」と手を差し伸べたので、つかんで立ち上がろうとした。
が、それはできなかった。
恭也は知佳をつき飛ばすと、森のほうへ走っていってしまった。
走る先には三十がらみの男がいた。
男の手に握られた拳銃が二度火を吹くと、同時に恭也が小太刀を振った。
二度キンキィンという音がした。
さらに加速した恭也が駆けぬけた後には、残像と土煙が残っていた。
男はバズーカのようなものを肩に担いだ。
砲口は恭也のほうを向いていなかった。
照準は、恭也の後ろでぼんやりと座り込んだままの知佳のほうに向けられていた。
弾丸が放たれた。恭也は舌打ちすると、それを追ってターンした。
145m/Sの弾丸は唸りを上げて、瞬時に名探偵と知佳の間の数十mを飛んだ。
知佳はウソみたいな光景をぼんやりと眺めていた。
一連の動きがまるでスローモーション映像みたいゆったりとして見えた。


ロケットはもう顔から数十cmのところまできていた。
あ、人間はこんなふうにあっけなく死ぬんだ、と思った。
回転する弾丸ののっぺりとした光沢と、そこに映りこんだ自分の顔まではっきりと見えた。
そのとき、キンッ!、と澄んだ音がして、弾丸の外殻が切り裂かれた。
真二つになった金属の中から、違う色をした金属がのぞいて、
ふたたび、キィン、という音がして、むき出しになった信管が切り裂かれた。
いつの間にか追いついた恭也の仕業だった。
わずかに遅れてやってきた風が知佳の顔をふわりと撫でていった。
彼のシャツは翻ったままで、精巧な彫像みたいにとまって見えたが、
実際にはそれらは瞬きもないほど一瞬のことだった。
恭也の背後から声がした。
「敵に背を向けてはいかんなぁ、少年?」
続いて、森の中にふたたび銃声が響きわたった。
知佳ははっとした。
時間が動き出す。
恭也のシャツに浮かんだ赤い小さな点がどんどんどんどん広がっていく。赤く染まっていく。
そして、支えを失った人形のように崩れ落ちた。
「恭也さん!」


叫ぶ知佳の目の前で、さらに三発の銃弾が恭也の腹に打ち込まれた。
着弾のたび、恭也の体がわずかに震えた。
「ぁ……」
数滴の鮮血が知佳の頬に飛び散った。
見開かれた知佳の瞳孔がすっと引き締まる。
青空の下に赤い血が途切れることなく流れては、大地に染み込んでいく。
「存外あっけなかったな・・・僥倖というべきか」
「ぁ、ぁ、あ、ぁあ…」
歩み寄る琢磨呂のことなど気にもとめないで、知佳は四つんばいで恭也のほうに近寄った。
「恭也さん、恭也さん!」
腹部からおびただしい血が流れ出ていた。
倒れたまま動かなくなった恭也をゆすりつづけるが、ぴくとも反応しない。
ぐったりと弛緩した彼の体が驚くほど重い。
「フフフ、彼には気の毒なことをしたね。
ま、ここで仲良く死んで、あの世とやらで親交を重ねてくれたまえよ。
君がその種の死後世界を信じているかは私の関知するところではないが・・・
でも、言うじゃないか。信じるものは救われる。
フム、この場合は死んでるものは救われるのほうがしっくりくるような気もするが・・・どちらでもいいか。
いずれにせよ、だ。君も信じて、そして救われてみてはどうかね?
旅券は私が用意しようじゃないか」
おどけながら、琢磨呂は知佳のこめかみにコルトの硬質な銃口を当てた。


「どうして…」
「ん?」
「どうして…、こんなに簡単に…」
「人を殺せるんですか、かね?」
知佳は腹から血を流しつづける恭也を見たまま、肯定も否定もしなかった。
琢磨呂は気にせず続けた。
「ラスコーリニコフ青年ではないがね、
私のような天才は凡人の作った規則の外にあることもやむをえないと思うのだよ」
「そんなわけ…」
「ないじゃないですか、とでも言うつもりかね?」
知佳の言葉を素早く引き取った声はうってかわってひどく冷たい。
目ももう笑っていない。
知佳の柔らかな髪に銃口をさらに強く押し付ける。
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
琢磨呂は表情ひとつ変えずに引き金を絞った。
火薬の破裂する無愛想な音がして、銃口から細い煙が立ち上った。
あたりに硝煙の独特なにおいが広がる。
琢磨呂は目を閉じて、鼻から大きく息を吸った。
そして、勝利のにおいをじっくりと堪能しながら、口元に冷たい微笑を浮かべた。


「どれ、確実に止めを刺しておく・・・・・・か?」
琢磨呂は絶句した。
脳漿をぶちまけるべく放たれた弾丸が、空中でピタリと静止していた。
オーロラのようなものが弾丸を止めていた。
蜻蛉の翅のような色合いをしたそれは、紛れもなく知佳の背中から生えひろがっていた。
「これは何だ・・・、羽?翼だと?バカな、そんなことが…。いや、そんなはずはない。」
琢磨呂は目に映るものを拒否するように首を振ると、
やっきになってさらに数発の弾丸を打ち込む。
しかしそれもまた宙に浮いたままで止まった。
「こんな・・・、こんなはずが・・・・・・こんな・・・はずが・・・
・・・何か・・・あるはずだ。何か、トリックが・・・。」
絶望的に呟く琢磨呂。
虹色の翅がそれを見て喜ぶかのように伸び縮みする。
その翅の先端が木の枝に触れた。
すると触れた部分の葉は一瞬で枯葉に変わった。
若々しかった枝は水分を失った老木のようになった。
「あぁ・・・何だ?わたしは夢でも見ているのか?
でなければあまりに・・・、あまりに非常識だ」
頭を抱え込む琢磨呂の目の前で、
その枯れ枝から新芽が芽吹き、若葉が萌え、再び枯れ衰え、再び芽吹いた。
翅の触れていたわずかな時間に、木の一生を早回しに何度も何度も見ているようだった。


琢磨呂は小さく身震いした。
「何だ、貴様は・・・。貴様は…化け物……」
地面に転がり落ちた弾丸の表面は、何かに強くねじられたみたいにぐちゃぐちゃによじれていた。
「人間・・・・・・だよ。けど、力はある」
知佳が答えた。その声はひどく乾いている。
奇妙に感情の抜け落ちた、ただ事実を簡潔に伝えるだけの声。
「力は・・・ある」
知佳はうわごとのように繰り返した。
うつむき加減の顔は蒼白で、細い手足が小刻みに震えている。
垂れ落ちた彼女の髪は、風もないのにひとりでにそよいで、
細くやわらかい髪がふわりと広がるようになびく。
琢磨呂はもう一度撃ってみるべきか迷っているようだった。
ともすればぶれそうになる照準をを合わせながら、一度も知佳から目を離さなかった。
そのとき、彼女の髪の動きがぴたっと止まった。
顔を上げた知佳の顔にはおよそ表情と呼べるものがなかった。
その能面のような頬の上を涙が伝う。


「力はあったのに……、わたし・・・!わたしはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
狂ったような知佳の咆哮。
その叫びに応えるように翅が大きく伸び上がり、
何者かに持ち上げられるみたいにして彼女の体が数cmばかり宙に浮く。
翅に触れた周囲の木々が次々に枯れては、めまぐるしく新緑を吹きだし、
空気が音をたてて渦巻き、地面は腐ったみたいにぐずぐずになり、変な匂いを発し始め、
なおも止まらない涙が滴り落ちては、翅が放つ燐光に触れて空中に消える。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
それはどちらの叫び声だったのか、朝の森にけたたましく響き渡る。
琢磨呂は知佳に向かって何度も何度も引き金を引いた。
弾丸は知佳を避けるように飛ぶ。
ドォン!!
突如、銃声をかき消すほどのものすごい音がして、分厚い空気の壁が琢麻呂に叩きつけられた。
衝撃に琢磨呂は後ろからものすごい力で引っ張られたみたいに優に数百をメートルを飛んで、
森のはずれに転がり落ちた。
彼のぶつかった木はへし折られており、あとに一筋の道ができていた。
そのひらけた道を虹色の翅が優雅に通る。
少し行ったところで知佳はちらりと後ろを見た。
しばらくそのままでいた後、彼女の姿は陽炎のように揺らめいて消えた。
翅が通ったあとは何もかもが一変し、以前のおもむきを残していなかった。



「くっ、う、・・・。クソッ、なんて・・・ことだ。いったい、どうなっている。あの小娘」
悪態をつきながら立ち上がろうとして、琢磨呂は自分の体の異変に気がついた。
左の足が関節とは逆方向に曲がっていた。
「えぇい、こんなときに!・・・まぁいい、とにかくだ。
とにかく逃げなくてはならん。あいつは危険だ。あんなでたらめな奴には勝てない。
追いつかれる前にできるだけ遠くに行かねば・・・。確か小屋があったはず。
ひとまず、そこ・・・に・・・」
振り向いて琢磨呂は言葉を失った。
先ほど確かめたとき、森の入り口のあたりは数本の木が折れているだけで、
奇妙な変化はしていなかったし、虹の翅が近づいてくる様子など見えなかった。
小屋まではそう遠くはなく、琢磨呂はずいぶん飛ばされたので、しげみ伝いに隠れ進めば
這っていくことを考慮に入れても、追いつかれるまえに絶対に逃げ切れる距離だった。
「なのに・・・何で、ここにいる。どうして、貴様が、ここにいるんだ!」
琢磨呂の目の前にうかぶ知佳はなんとも答えなかった。
「そうか、テレポーテーションだというのだな?そうなんだろう、え?
あれだけの事をしておいて、そのうえ瞬間移動だと?チクショウ、化け物め・・・」
少し小首を傾げるような格好をした彼女は、生気のない目で冷然と琢磨呂を見下ろしていた。
「おっと、動くなよ。それ以上少しでも近づいてみたまえ、・・・撃つぞ。
察するに君はまだその力を制御できていないんだろう。
フフフ、さっきはたまたま上手くいったが、今度はどうかな?
あるいはもう一度同じことができるかもしれない。そうさ、その公算は大きいだろうな。
だが、あるいは、だ。あるいは弾丸を止められないかもしれない。
止めきれないかもしれない、とそうは思わないかな?
あまり分のいい賭けとは言えんと思うがね。さ、悪いことは言わない。ここを立ち去りたまえ」


ブラフだった。
そのことを知っているかのように、知佳は翅をたなびかせながらゆっくりと近づく。
「止まるんだ!」
琢磨呂は悲痛な声で叫んだ。
「止まれ、止まれと言っている!・・・っ、くそっ。わたしは止まれと言っているんだぞぉっ!!」
口から泡を飛ばしながら琢磨呂はコルトを撃ちまくる。
彼の目の前に転がる空薬莢がどんどん増えていく。
放たれた45口径はただの一発も知佳に命中していなかった。
全ての弾丸が見えない粘土にでも当たったみたいに、彼女の前で急に失速して地面に落ちた。
「くそっ、なぜだっ!なぜ、私がこんな目にッ!」
彼は打ち止めになったコルト・ガバメントを地面に叩きつけ、這いつくばって逃げ始めた。
知佳の冷たい視線が琢磨呂を射抜く。
「うぉっ!な、何だ?」
琢磨呂の体が宙に浮き、彼の手足はむなしく空を掻く。
手足は彼の意思に反して伸ばされ、磔られた囚人の格好で空中に固定された。
知佳がすっと手を上げる。
すると、彼女の動きに答えるように、枝葉のない枯れ木が地面から引き抜かれた。
浮き上がった木は地面と水平になり、槍にも似た鋭利な先端を琢麻呂に向けたまま、動きを止めた。
「これはナンセンスだ。私一人殺したところで、あの少年は帰ってきやしないんだぞっ!
・・・何を笑っている、何がおかしいんだ、え?」
七色の光も不吉な翅は、彼女の背で息づくように伸び縮みしている。


槍は獲物を狙う獣のように、じっと時を待っている。
琢磨呂は何とかのがれようと体を左右にひねるが満足に動くこともできず、
最後には唯一自由になる首を激しく振りたてながら、口汚く知佳を罵りはじめた。
知佳の顔にあざけるような笑みが浮かんだように見えたが、
彼女はやはりもとの無表情のままだった。
まるで琢麻呂の絶望を堪能しているかのように、そのままの状態がしばらく続いた。
知佳の手がすっと上げられた。槍は動かず、力を溜め込んでいるようだった。
「何だ、その手は、いったい何の真似だ・・・?
まさか・・・、まさか、君は・・・何をするつもりかね・・・
やめたまえ。やめ・・・たまえ。やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!
いますぐ、それを下ろせぇぇっ!下ろせといってるんだ、このクソガキがぁぁっ!!
私は、私は・・・グ・・・ゥウ・・・・・・」
静止していた槍は待ちかねたとばかりに唸りを上げ、鋭い先端は琢磨呂の腹から背へと貫いて、
そのままの勢いで近くにあった巨岩に深々と突き刺さった。
くぐもった声を上げながら、琢磨呂は知佳のほうに懸命に手を伸ばす。
もう力も入らないのか、血まみれのその手は震えていた。
何か言っているらしかったが、喉からあふれ出る血のせいでごぼごぼという音にしかならない。
そして、一瞬目を大きく見開いたあと、大量に喀血して、あっけなく事切れた。
知佳は一部始終を見届けて、頬についた返り血を指でぬぐう。
その手は二人分の血液でべったりと汚れていた。
あたたかな血からはわずかな鉄の匂いがした。
自分の手を眺める彼女の瞳に光が戻り、じんわりと涙が浮かぶ。
彼女の口から小さな嗚咽が漏れる。
「うぅ・・・あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
嗚咽は悲痛な叫びに変わり、それに呼応するように翅が猛烈な勢いで広がり、
周囲の景色を一変させながら、空気を大きく震わせる。
震えは風に変わり、翅の広がりにあわせるようにして少しずつ強くなり、
最後にはたたきつけるような一陣の颶風となって島中を駆け抜けた。
大量の砂が巻上げられ、樹木は大きく傾ぎざわめき、水面に無数のさざなみがおこる。
やがて風が収まったとき、知佳の姿は消えていた。





「これは・・・いったい」
「ふわー」
「なかなか・・・シュールな風景ですね。ほら、あそこ。枯れ木に花が咲いています」
遠くに虹色の輝きを見て駆けつけた魔窟堂たちは、目の前の光景に言葉を失った。
「ダリの絵みたいですね」と紗霧サン。
「ウ・・・ム。いったいここで何があったんじゃろうか?長い間生きてきたが・・・これは・・・」
魔窟堂は首をひねった。
自然の風景にも見えないが、さりとて人工的な感じもしない。
「ア!あそこ見てください、魔窟堂さん」
「ん?おお、あれは!」
まひるの指差す先には、恭也が倒れていた。
「恭也殿、恭也殿!む、撃たれておるのか・・・。
急所は外しておるのは流石じゃが・・・これはいかん。
とにかく出血がひどい。この救急セットにはやや荷が勝ちすぎるわい」
「どうします、病院に引き返しますか?」
「いや、確か森のはずれに小屋があったはずじゃ。
ここからならそちらのほうが近いじゃろう。少し急ぐぞ?」


【13 海原琢磨呂:死亡】

―――――――――残り 10



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広場まひる
月夜御名紗霧
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