188 楽園
188 楽園
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(第二日目 AM11:00)
ハァハァ・・・
木立にまぎれて女の苦しげな息遣いが聞こえる。
獣道に点々と続く女の足跡には例外なく小さな血だまりができている。
密に茂っていた青や緑の樹木が歩を進めるにつれ、漸う粗になっていく。
やがて女は森を抜け、森と草原との境に立って、ため息交じりに「トン」と楡の木に背を預けた。
「あ〜あ・・・、ミスっちゃった・・・なぁ」
カモミール・芹沢は眉をひそめて、苦笑いした。
木漏れ日に照る顔はすっかり蒼ざめ、額にはじっとりとした脂汗が浮いている。
足元に落ちる血はどんどんとその真っ赤なしみを広げていく。
芹沢は「ハァ」と、もう一度ため息をついて、無くなってしまった自分の左腕を眺めた。
とりあえず、羽織を脱いで傷口に巻きつけておいたが、
浅葱と白のだんだら模様はおろか、背に染め抜いた誠の一字さえあっという間に鮮血に隠れてしまった。
今ではもう元々の色を見つけることすら難しい。
「ここを突っ切れば・・・」
開けた空を見ながら苦しげに息を吐く。が、その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。
芹沢は久しぶりに空を見た気がした。その青がいやに透明できれいだった。
その下には幾筋も立ち並んだ畝が朝日に照らされ、白んでいる。
さらに向こうには背後の森に対するがごとくにそびえる山がある。
三度笠を置いたみたいなその山には木が一本も生えておらず、
その赤茶けた山肌も霞がかかったようで心持ちぼやけて見える。
芹沢は痛む腕に顔をしかめながらも、しばらくその光景に魅入られていた。
「ま…不二には負けるね〜」
芹沢は上京の際に遠く眺めた富士山を思い出して口角をつり上げた。
同時に、連れ立って歩いていた三人の旅仲間のことも思い出した。
彼女は一歩一歩と都に向かう道すがら、ずっと三人の後姿を観察していた。
やさしい目じりをした人のおっとりとした言を、目つきの鋭い人がにべもなく切って捨てる。
もう一人の眼鏡の少女がそれを楽しそうに見ている。
芹沢は少し離れたところから彼女らの表情を目で追っていた。
わいわいと楽しそうだ。
彼女の視線には強烈な憧憬と劣等感とがない交ぜになっていた。
いつもアウトサイダーであったカモミール・芹沢には、いつだって彼女らがうらやましかった。
やがて彼女ら一行は都に至り、紆余曲折のすえ、壬生に屯所を構えることになる。
新撰組。数人の同志からなる狼に擬せられた剣客集団。
芹沢はその局長になった。心が震えた。ようやく彼女に帰る場所ができた。
「まだ…終われないよね〜」
大きく息を吐き出して肩をそびやかすが、
言葉とは裏腹に太い楡の木にもたれかかったまま、ずるずると座り込む。
腕から流れる血は止まらない。
羽織から染み出し、滴り落ちては小さな血だまりを作り、
さらに滴らせては小さな血だまりは大きな血だまりへとかぎりなく合わさっていく。
すっかり血の気が失われた顔面は蝋のように白くで、唇も紫色になっている。
まぶたが力なく、まどろむようにゆっくりと落ちていく。
投げ出された手足はだらんと力なく垂れ下がり、
呼吸はずいぶんと弱々しく、その回数も目に見えて減ってしまった。
「あ〜、カモミール?」
「んん〜?」
芹沢はけだるげに返事をする。
一応返事はしたものの、振り返らなくてもその臭いで誰が立っているのかは容易に知れた。
ゆっくりとした動きで振り返ると、やはりそこには素敵医師の姿がおぼろに見えた。
「ヘケ、へケケ、怪我したがか、カモミール?」
素敵医師の言葉はもう、芹沢の耳にはうまく入っていなかった。
「ケケ、ザドゥの大将がゆーちょったが、助け合いは大事大事やき…へケケ
心配せんでいいがよ、おんしはセンセがぎっちり助けたるき」
へらへらと笑いながら、素敵医師は薄汚れた白衣から数本のアンプルを取り出すと、
内容液を注射器に吸わせる。
死人のよう顔色の芹沢は安らかな表情で目を閉じ、楽しげにニコニコと笑っている。
「たのし〜夢でも見てるがか?ケケ、目覚めても夢見心地やき安心しとーせ」
芹沢の左腕のつけ根あたりに針をつきたてると、肌に小さな血の玉がぷくりと浮かぶ。
奇妙に青みがかった内容液がみるみるうちに体内に注ぎ込まれていく。
「へケケ、人口の楽園へようこそ」
自分の言葉がいたく気に入ったのか、素敵医師は嬉しそうに手足をばたばたさせた。
間もなく芹沢の頬には少しずつ赤みが戻り、
血のしたたりもそれにあわせて間隔が長くなっていった。
やがて、彼女は目を覚まし、糸の切れた人形のようなゆっくりとした動きで素敵医師のほうに顔を向けた。
目はどろりと濁って焦点が合わない。表情も何か呆けたようでしまりが無い。
「ヘケケ、イ〜イ表情がやき、カモミール。
おなごしはこがいな表情が一番ええき、ケケ」
包帯で巻かれた素敵医師の手が芹沢の紅潮した頬に触れる。
「ぁ……」
「芹沢、センセが分かるがか?分からんがか?ま、どっちでもかまわんき」
プスッ
「へケケ、もう一本おまけがやき、感謝しとーせ、芹沢。
センセのお薬は即効性やき、もっともっとええ感じになってきたがか?」
「ぁ…、あ……」
「おーお、そがいによだれたらして…、へケケ、気持ちええがか?
芹沢、おらぁが言うことよーく聞きとおせ。
センセはあるおなごしに命を狙われとるがよ、アイン、ちゅう嬢ちゃんやが、これがなかなかのヤリテやき。
センセ、ほとほと手ぇ焼いちゅうがよ」
彼は「ケケ、同じようなこと、センセ前にも言った気がするがよ」と続けて首を激しく左右に振った。
「そいで、芹沢にはその嬢ちゃんの相手して欲しいがよ」
「相手?」芹沢は小首をかしげる。
「へケケ、したらセンセ、芹沢にもっとオクスリをプレゼントしちゅうがよ。どうなが、素敵がやろ?」
「オク…スリ…?」
「今より、気持ちよぉ〜くなれるがよ、けけ」
「ウン〜…」
子供のようにこっくりと頷くと、芹沢は何かに誘われるような足取りで歩き始めた。
素敵医師はそれを見ながら満足そうに目を細め、真っ赤な口腔を覗かせてにんまりと笑った。
その間も彼の眼球はいっかな落ち着きを見せず、絶え間なく動きつづけている。
「ぷふー、センセのためにぎっちりガンバルがよ、新撰組局長殿!へケ、ヘケケケケ」
素敵医師はゆらゆらと体を左右に揺らしながら青空に響き渡るような笑い声を上げ、その場を後にした。