184 Menschliches, Allzumenschliches
184 Menschliches, Allzumenschliches
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入りこんでくるかすかな光がしおりの髪と細い手を淡黄色に光らせている。
堪えきれず溢れ出てくる涙を見せまいと何度も何度も両手で必死にぬぐいながら、
彼女は何度も「ごめんなさい」と謝った。
泣きじゃくり謝りつづける彼女を見て、これは決定的な瞬間なんだとアズライトは悟った。
覚悟は言葉にしなければ、誰にも伝えることが出来ない。
「僕…僕、は……」
言いよどむばかりで言葉にならず、やがて雫がうっすらと埃の積もった床を叩いたとき、
しおりは「ごめんね、おにーちゃん」と言ってにこりと笑うと、そのまま走り出してしまった。
困ったように眉を寄せた痛々しい笑顔だった。
先ほどまで握られていた手から急速にあたたかさが逃げていく気がした。
追うべきだ、追わなければならない、とそう彼は判断した。しかし彼は、追えない、とそう結論した。
アズライトは自問する。嘘でも「ずっと一緒にいられるよ」と言うべきだったのだろうか、と。
彼女の消えた暗がりを見ながらそんなことを考えていたとき、
彼は鬼作の姿が見えないことにようやく気が付いた。
一人になってからあらためて眺めてみると、後先の見えない廊下はひどく長々しい。
彼はこの廊下で月を見上げたことを思い出した。
あの時はまだ窓に目張りは施されておらず、
外には空を領するようにしてひどく青白い月が病的な光を投げかけていた。
うなだれる彼は、自分のことを信用できなかった。
肝心のときに、肝心の言葉を与えることが出来ないで、果たして彼女を守り抜くことができるのか。
彼にはもうよくわからなくなっていた。いなくなった鬼作のことも気にかかる。
それでも一瞬の逡巡のあと、彼は奥へと一歩足を伸ばした。
すると床がギシリと鳴いた。一足進めば、あとは自然に歩を進めることが出来た。
奥へと進むうち、聞き覚えのある声で放送が始まった。
「まもなく王子様の到着だ、プリンセス」
「だんまりか、それもいいだろう」
「フフ、感動で声も出ないかな?」
「それとも痛みで動くことが出来ないのかな?」
「私としても手荒な真似はしたくなかったのだが、君の態度はお世辞にも協力的とはいえなかったからね」
手荒な真似、という言葉にアズライトは思わず走り出した。
この放送がしおりについてのものなのだという、漠然とした確信が彼にはあった。
彼の焦りに関係なく、放送は続く。
「体温・心拍数ともに上昇中」
「過度の興奮は生体に悪影響を及ぼす。落ち着きたまえよ、プリンセス?」
「それは酷というものだ、愛するものの姿に興奮できるのは人の特権」
「フフ、そうだ。人の特権。だが、人にあらざるものであったなら?」
ノイズのチリチリする音に混じって、くすくすという笑い声が聞こえてくる。
アズライトにはそれが同じ声をしたもの同士の会話に聞こえた。
「曰く、犯人は現場に戻る」一人がそう言った。
「あまり論理的ではないな」もう一人がそう答えた。
「何より、彼は犯人ではない」
「帰納的推論は確率論に過ぎない」
「論より証拠、つねに事実は小説より奇なり、だ」
「それは人のイマジネーションの欠如・不足に由来する」
「イマジネーションの産物は常に現実より発しながら、もはやその残滓すらとどめていない」
「現実以外の比較項目を持たないにもかかわらず、人には現実のほかによりどころとするものがない」
「フフ、同語反復。それは悲劇だな」
「違うね、喜劇さ」
「どうして?」
「ゴドーを待つのさ」
「ああ、そうか」
またクスクスという忍び笑いが聞こえてきた。
アズライトには何が面白いのか、まったくわからなかった。
かび臭い匂いをかぎながら、廊下を一気に走り抜ける。
それほど長くはないはずなのに、廊下は途切れることなくどこまでも続いているように思われた。
「見えたっ!!」
最初の部屋のドアを勢いよく空けると、「ほら、ゴドーの到着だ」
その声はスピーカーからではなく、直接聞こえてきた。
部屋に入ったアズライトは二つのものを目にした。
ひとつは放送の声と同様、まったく同じ顔、まったく同じ背格好をした五人の女。彼女らはみな白衣を着ていた。
もう一つは、背中を丸め、腹を抑えてうずくまるしおりだった。
よく見ると、しおりの赤いワンピースのその部分は周りの赤よりもいっそう濃くなっているようだった。
「心配ない、弾は抜けている」
アズライトの疑問を察したのか、白衣の女の一人が行った。
「…しおりに何をしたんですか?」
「なにね。まるでがら空きだから撃たせてもらったんだ。フフ、痴話喧嘩でもしたのかな?でも少し迂闊だ」
「こちらもまさか、あたるとはおもわなかったがね」
至極あたりまえのことを話すように彼女らの表情は一切変わらなかった。
しおりは意識を失っているのか、なだらかな肩が規則正しく上下している。
赤い血だまりが少しずつ広がっていく。凶とはいえ、血を失いすぎるのはよくない。
そんなアズライトの焦りを見透かしたかのように白衣の女はさらに話を続けた。
「私は椎名智機、今大会開始時にお目にかかったことがあるのだが覚えているかな?」
「ちなみに隣にいる私も、その隣にいる私も、椎名だ」
「それにしても、よもやゴドーがのこのこと出てくるとはな、フフ、脚本が台無しだ」
「失礼だぞ、彼はゴドーではない」
「そう、彼はゴドーではない」
「彼は登録番号第14号、アズライトだ」
「知っているよ」
「そうだろうな」
今度は彼女らは笑っていなかった。彼女らはつまらなさそうな顔をしていた。
「…しおりを返してください。」
「残念ながらそれは出来ないな、ゴドー」
教室のなかの空気がぴんと張り詰める。
鼻を鳴らすと、智機は慌てる風も見せず軽く眼鏡を押し上げた。
「まぁ待て、アズライト君、見せたいものがある」
しおりの右側に立っていた智機がアズライトを制すると、同時に残りの四人も一斉に同じ仕草をした。
最初に手を上げた智機は白衣のポケットからリモコンのようなものを取り出し操作すると、
「これを見てもらえるかな?」といってモニターを指した。
何度か画面の中の映像が何度か切り替わり、
砂嵐のように荒れた画面のなかにぼんやりと白いものがうごめいているのが映し出された。
「これは…」と言ったきり、アズライトは口篭もる。
やがて鮮明になった画面には、ズボンを膝のあたりまでズリ下げて女にのしかかっている鬼作が映っていた。
「そう、君のお仲間だ」
「そして私だ」
たしかに鬼作の相手の女は目の前にいる女と寸分たがわぬ格好をしている。
ただ一つ違うのは、鬼作が吐き出した精で女の肌は闇の中でも分かるくらいにてらてらとぬめ光っていた。
「やれやれ、モニター越しにも臭ってきそうだな」
「機械仕掛けのダッチワイフにあれほど興奮できるとは、人間というのは滑稽だな」
「だが、当の本人は大真面目だ、彼は本能に忠実だけさ」
「フフ、だからこそいっそう滑稽だ」
「笑うなよ、敵が見ている」
「笑ってやらねば、道化があまりに哀れだろう?」五人はまたクスクスと笑った。
智機はモニターの中の情交に目を向けたまま、話しはじめた。
「アズライト君、君は本来このゲームに参加しようと考えていたはずだね?」
「そう、それをこの男がそそのかした。そうだろう?」隣の智機が言葉を継ぐ。
「彼はこう言った。この島から逃げよう。手段はある」
「だが、それはウソだ。その証拠に隣の部屋に通信機などなかったはずだ」
「彼には何の手段もありはしない」
「逃げることなんて出来やしない」
「君は選ばれたんだ」
「そう、選ばれた」
「最強の駒」
「少し当てが外れたようだがね」
「だが、思わぬおまけつきだ。あながちはずれでもない」
そう言って、五人は失われたアズライトの左手としおりを交互に見てクスクスと笑った。
「私は別に君を責めているわけではない」
「誰しもが間違いを犯しながら生きている」
「ただ、騙され上手な君にチャンスを上げようと思ってね」
「そう、もう一度このゲームに戻るチャンスだ」
「チャンスは常に君の周りに生じる。生かすも殺すも君次第だ」
「まぁ、チャンスに気づくことこそがもっとも難しいんだがね」
十の瞳がまたクスクスと笑った。
「さて」
一体の智機がモニターの中の鬼作を指差し、意味ありげに白衣のポケットに腕を突っ込んだ。
「今から、彼を殺す。彼は反逆者だ」
「正確には、その教唆だが」
「さらに言うならば、それは教唆ですらなかった。道化は逃げる気などなかった」
「だが、この際それは関係ない」
「そう、関係がない」
「重要なのはかの道化が君らに反逆する意思を与えたということだ」
「そうだろう、ゴドー?」
「君は彼にそそのかされた」
「だから処刑は実行されねばならない」
「そのあと、君の意思を確認したい」
「つまり、君にふたたび殺戮への道を開こうということだ」
「そのために、君には一つやってもらいたいことがある」
「そう、ゴドーにはプリンセスを殺してもらう」
最後の言葉に、アズライトははじかれたように顔を上げた。
一人は真っ直ぐにアズライトの眼を見ている。残りの四人は倒れたしおりを見ている。
いずれにせよ、目の前に並ぶものたちの表情はやはり変わらない。暗がりに言葉は淡々とつづられる。
「まずは反逆者の処刑から行う。それまでそこでゆっくりと考えておいてくれたまえ」
口々に話していた五人の智機はそこでようやく黙った。嫌な沈黙がわだかまる。
我に返ったアズライトが口を開こうとすると、ふたたび智機の一人が話し始めた。
「公開処刑、人間が考案した祝祭のなかでも私はこれが一番好きだな」
有無を言わせぬ口調でそう言って彼女がすいと目を細めると、
血のように赤い瞳の中を幾筋もの光が流れていく。
アズライトにはその光の行く末がどこなのか、見当もつかなかった。
光はこの島に配置された智機たちをつないでいた。
「やってくれ…ああ、かまわない。役者はそろった」
「It's showtime!」
ひときわ大きな声で、しかし抑揚のない声で一人が祝祭の開始を叫ぶ。
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」「反逆者には死を!」
低く唸る読経のような智機たちの声が不気味に空気を震わせる。
目眩がするような、吐き気のするような嫌な反響が部屋中に溢れ返る。
心なしか、部屋が伸び縮みしているようにすら感じられる。
「鬼作さん、ごめんなさいっ!」
アズライトは鬼作を残してきたことを後悔したが、次の瞬間迷いを振り切るように目を見開くと、
虚空に向かって話す智機に向かって地を蹴る。
タタン、という軽快な音にわずかに遅れて智機の前に姿をあらわしたとき、
残された右腕は既に闇色に節くれだった力持つそれに変じていた。
ゼロ距離でアズライトの腕が振られる。
派手な音を立てて、触れた部分がこなごなに砕け、破片が木造校舎の壁に深々と突き刺さる。
一体が一瞬のうちに破壊されても、残りの四人は動こうとさえしなかった。
まるで、何もなかったかのように話を続ける。
「やはり、彼は最後まで戦うつもりらしい」
「当然だろう、彼には力がある」
「彼の力なら私を五人始末するくらいわけない」
「フフ、五人なら……」
言い終わる前に、アズライトの腕に触れ智機の首はあっけなく胴を離れた。
続けざまに二体、三体と智機を破壊してゆく。
「ひどいな」
最後に残った一人が、天を仰いで大げさに嘆いてみせるのにもかまわずに、
アズライトの右腕は躊躇なく智機の腹を深々と刺し貫く。
まるで生きた人間のように数度体を痙攣させると、智機の目から光が消えた。
手を抜き取ると、ゴトリという大きな音を立てて智機の体が床に落ちた。
大きく深呼吸して、息を整える。床には五つの智機だったものが横たわっている。
先ほどまでいやに饒舌だったもののなれの果てを見下ろしながら、アズライトは正直やや拍子抜けしていた。
彼らはあまりに手ごたえがなさ過ぎた。
「しおり、大丈夫………………え?」
振り向いたアズライトの目に信じがたいものが映った。
それは今しがた倒したはずの智機だった。それも一人や二人ではない。
十人よりももっと多く、今も教室の奥の倉庫のようなところから出てくる。
「彼女、台詞の途中だったのにな?」
先頭を歩いていた智機が同意を求めるかのように肩をすくめ、眉を寄せた。
その間にもどんどん智機は増えていく。アズライトは戦慄した。
「だが、気にしないでくれたまえ問題はない。裏切り者の道化は死んだ」
先頭の智機がふたたび口を開いた。
「あっけないものだ」
「ゴドー、君も見てみるがいい」
言われるままにそちらを見ると、床に突っ伏す鬼作がモニターに映っていた。
手足の間接が奇妙な方向によじれ、首も背骨も引き攣れるようにねじれている。
隣に立つ一糸まとわぬ智機がそれを見下ろしていた。
「そん…な」
膝をついて呆然とするアズライトの耳に智機の冷たい声が響く。
だらしなく開かれた口に深いしわの刻まれた苦悶の表情を浮かべて、鬼作は事切れていた。
喉が渇いて、焼けるようにひりつく。
「死は不意に訪れる」いつしか隣にやって来た智機が耳元で優しくささやく。
「反抗は、もう終わりかな、ゴドー?」
アズライトは動けなかった。彼の目は鬼作の遺体を映し出すモニターにくぎ付けにされていた。
「ならば、ゴドー。あとはプリンセスを始末してくれないか?」
「君の、その手で」
「今すぐ、ここで」
「だって、君のあまりにも繊細で脆弱な心では誰も守れやしない」
「道化も」
「プリンセスも」
「ゴドー、君自身も」
「そして、愛しい愛しいレティシアも…」
その名を聞いても、アズライトは黙ってモニターを見ていた。
智機は力なくうなだれるアズライトの顎に手をかけるとを部屋の片隅のモニターのほうに向かせた。
彼はまるで糸が切れた人形のように、なされるまま身を任せていた。
「守りたかったんだろう、彼女を?」
アズライトの耳元で機械仕掛けの声帯が、やさしく空気を震わせる。
アズライトは夢見るようにとろんとした表情で、映し出されているものを見つめる。
鬼作が死んでしまったことも、智機が増えていたことも忘れてしまったように、食い入るように画面を見つめる。
「レティ…シア…」
そこにはレティシアが映されていた。
何気ない日常の風景、彼が置かれた今の状況から最も遠い風景の中、
死んだはずのレティシアがそこに生きて微笑んでいた。
アズライトはモニターのほうへと夢遊病者のようにふらふらと歩き出す。
「不毛だな」と哀れむように智機が言った。
だが、その声はもうアズライトには届いていなかった。彼はただ一歩モニターに歩み寄る。
「死者に魂を引かれたものよ」と別の智樹が言うと、アズライトはさらにもう一歩、歩み寄る。
「君は本当に生きているのか?」もう一歩。
「君は死後の世界に生きているのではないか?」また一歩、きしりと床が鳴る。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」アズライトの足は止まらない。
「To be, or not to be, that is
question.」
「フフ、理解できないな。だが、だからこそ面白い」
ついにアズライトはモニターの前にやってきた。
モニターにすがりつくようにかじりつくアズライトの背中に嘲笑を投げつけると、
智機の忠実に再現された肉色の唇のあわえから淡紅色の口腔がのぞく。
「さよならだ、デアボリカ」
智機は手にしていた銃口をアズライトの頭部に合わせた。
「やらせないッ!!」
叫び声のあとに金属同士がかち合う鋭い音がして、智機の腕が拳銃を握り締めたまま床に落ちた。
智機は切られた腕と血の流れない切り口を見たあと、少し唇を緩めた。
「もう動けるのか、おもしろい。そうでなくては、な」
視線の先にはしおりが立っていた。
アズライトを守るように刃を構えているしおりに、智機はサディスティックな笑み浮かべる。
どこから現れたのか、いつの間にか部屋の中は智機でいっぱいになっていた。
数十は下らないだろう智機がぐるりとしおりを囲む。
「さぁ、どこまで耐えられるかな?」
言い終わると同時に、数体の智機が一斉にしおりに踊りかかった。
戦士としての智機は堅い以外には取り柄のない凡庸な能力で、
凶となり力を得たしおりの敵ではなかった。が、数があまりに多かった。
「火が使えないからってぇぇぇぇっ!」
叫びながら、発射された弾丸をかわすと足を薙ぎ一体を行動不能にする。
噴出した硝煙と慣れないマズルフラッシュに手を焼きながらも、
息つく間もなく同時に三体の拳が突き出されるのをうまく体をひねって避けきる。
しおりは発火能力を使わずに戦っていた。木造校舎を燃やすのはマイナス要素が多すぎると判断していた。
ときおり、アズライトの背中に視線を送りながら、一体、また一体と切り捨てていく。
巧みに攻撃をかわし、足の踏み場もないほどに行動不能となった智機を増やしていったが、
あとからあとから湧き出てくる数のプレッシャーに徐々に押し込まれ、
ついにしおりは壁を背にして戦わざるを得なくなった。
「逃げ場がなくなったな。どうするプリンセス、王子様はビデオの鑑賞中でお忙しいぞ?」
しおりは萎えそうになる両の足を励ましながらなおも刃を振りつづけたが、
息をついた一瞬の隙をつかれ足を払われ、体勢を崩したところに一斉に銃弾が打ち込まれる。
「きゃぁッ!」
「さすがにかわしきれなかったかな?」
自分のふくらはぎに走る赤い線を一瞥すると、しおりはその場で跳ね起き智機達に切っ先を向ける。
切っ先は震えていた。
「怖いのかい?だが良い目だ」
「戦う戦士の目だ、あそこにいる腑抜けより、よほど良い目をしている」
「おにーちゃんの悪口…言わないで」
アズライトのほうを顎でしゃくった智機が一刀のもとに切り伏せられた。
が、しおりには切りつけるだけが精一杯だった。
再びバランスを崩すと、数十の重厚から、続けざまに数十の弾丸が放たれる。
「アァァァァァァァァァァァァァァァッッ!」
「どうした、動きが鈍っているぞ?」
はじきそこねた弾が左肩を貫く。熱い鉛弾の感覚にしおりは絶叫をあげた。
溢れ出し、彼女の肌の上を流れた赤い血が床に小さな水溜りを作る。
その間にも、次々と智機はその数を増していき、いつしか教室全体を埋め尽くしていた。
それでもアズライトは動かなかった。暗がりの中、モニターから放たれる光が彼の顔を怪しく光らせている。
部屋にはもうもうと硝煙の煙が立ち込め、金属がぶつかり合う音がひっきりなしに続く。
「もう…だめ」
つかみかかろうと繰り出され智機の腕を切り落とすと、
ついにしおりは日本刀を杖代わりにして片膝をついた。
撃たれた左腕はだらりと垂れている。
「79体か、意外とがんばったじゃないか、プリンセス?」
「ああ、赤いやつまであと一体だった」
「けれど、もう終わりだ」
「首輪を爆破しても良いが、君に敬意を表して……」
そういうと動けなくなったしおりの頭を蹴りつけ、ぐったりとなった彼女の細い首を締めはじめた。
機械仕掛けの万力のような力で締め上げられ、しおりの口から途切れがちに息が漏れる。
首の骨のきしむ嫌な音がした。
何とか逃れようと腕や足をばたつかせるが、消耗しきった体では智機を退けられない。
血の気が引いて青ざめていくしおりをみて、智機の瞳が喜色に揺れた。
「…30秒経過、そろそろかな?」
しおりの手足は力なく垂れ下がり、青ざめていた顔もいまや土気色に変わりつつあった。
八重垣のごとくに二人を囲む智機達は、みな一様にうすら笑みを浮かべている。
アズライトはレティシアのほうを見ている。
奇妙に喉を鳴らして何かにこらえるように震えていたしおり首から
不意に力が抜けようとしたとき、空を切る鋭い音がした。
間を置かず続いてカシャンというガラスが割れるときのような乾いた音が聞こえた。
「何だ?」
音のしたほうに無数の智機達のほか人影はなく、
ブラウン管が砕けたモニターからナイフの柄が覗いている。
しおりは智機の力が緩んだ一瞬の隙を見逃さず、渾身の力で智機の顔を蹴りつけて何とか逃れる。
「チッ!!」
智機は舌打ちし、しおりに銃口を向ける。
軸をずらして銃口を避けるとしおりは智機の真っ直ぐに懐に飛び込む。
一瞬、二人の視線がかち合う。
照準を修正する智機。
それよりもわずかに早く動いたしおり。
真っ直ぐに跳ね上げるように切っ先を振りぬくと、智機の手首が腕を離れた。
間髪いれず、しおりはさらに返す刃を走らせ、その胴を真横一文字に切り裂いた。
わずかの間に一体を始末すると、額に浮かんだ汗をぬぐって、しおりは思い出したように咳き込み始める。
彼女はどうと倒れた智機の向こう側に、見知った顔を見つけた。
「ケホッ、ケホッ…、ぉじ…さん、生きてたんだ」
涙でゆがんで見えるが、戸口に倒れこんで不敵な笑みを浮かべているは紛れもなく鬼作だった。
立つことは出来ないのか、そのままの姿勢でぐっと親指を立てた。
「まだ生きていたのか、道化が」
智機は割れたモニターと鬼作とを交互に見比べたあと、白けたような声で言った。
鬼作に向けなおされた銃口はせわしなく揺れている。
「なんだぁ、おまえ等出歯亀してたのかぁ?
――まぁ、いいさ、その件に関しちゃぁ、俺も似たようなもんだからなぁ。
そうさ、あのあと、おまえさんと同じ顔したあの女をいかせまくってやったのさ、
そりゃぁもうたぁっぷりとなぁ。へっ、そこまでは見てなかったのか?
最後は自分から腰を振りまくって、馬乗りでお変わり連発だぁ。
アヘアヘアヘアへ、すごかったんだぜぇ。ちょっと緩かったがなぁ、ヘッ」
威勢良くまくし立てる鬼作は、語気こそ強いが体は痛みのためか小刻みに震え、
ねっとりとした脂汗が額を光らせていた。
照星がいっせいに鬼作の眉間に合わせられる。
「おっとぉ、俺を撃つのか?
へっ、残念ながら俺はもう長くねぇから、そりゃぁ、かまわねぇけどよぉ。
だけどよぉ、そんときゃ、おまえたちも道連れだぁ」
鬼作が押し出してきたものを見て、智機の眉がぴくりと跳ね上がる。
どうやってここまで運んできたのか、人の背丈ほどもあるそれは数本のガスボンベだった。
「俺は意外とすばしっこいぜ。
そいつが火を吹くより早く、こいつを盾にするかもなぁ…
何ならいっちょ試してみるか?」
ためらう智機達にかまうことなく、鬼作はアズライトのほうを見て舌打ちし、
首を横に振り、長いため息をついた。
「おい、アズライトぉっ!!」
教室を震わせるほどの怒号にアズライトの肩がわずかに動く。
「まったくよぉ、とことん使えねぇ男だなぁ、てめぇはよぉ。
やれ、戦いたくはないだ、やれ、凶は造りたくないだぁ、腕は失う、挙句の果てに今度は引きこもりかぁ?
いちいち俺様に逆らうような真似しやがって、一体、いつまでブッ壊れたテレビなんぞ見てやがるつもりだぁっ!
いいかぁ、てめぇに覚悟があるんなら。こんなかにゃガス…、燃える空気が入ってる。
じょーちゃんが火をかけて、おまえがそいつでブスリとやりゃぁ……、ドカン、だ」
おまえが何考えてんのかなんぞ関係ねぇ!
俺がやれっていったんだぁ。黙ってやりゃいいんだ。
このまま死んじまったら、切ねぇだろうがよぉ。せめてこいつらを道連れにしなくっちゃだろうがぁ!」
それでも動かないアズライトの背中に、たたきつけるように怒鳴りつける。
「そうすりゃぁ…ガキンチョは助けられるだろうが?」
打って変わって、柔らかな声。
そこまで言ったとき眉間に弾丸が突き刺さり、鬼作はそのまま前のめりに倒れた。
今度こそ、彼は二度と動かなかった。
そして、それを合図にするかのように、しおりはふたたび智機達と刃を交え始めた。
アズライトはそれでもまだ呆けたような顔で、闇に閃く白刃と閃光とが入り乱れるのを眺めていた。
頭の中では暗いもやと鬼作の言葉がぐるぐると回っていた。
そのとき、さっと教室の中に一条の光が差し込んだ。
緩慢な動きでそちらに顔を向くと、
どうやらしおりが刎ね飛ばした智機の首が窓の目張りをつき破ったらしく、そこから光が入ってきている。
アズライトはその穴から外を見た。
青い空は見えなかった。白い雲も見えなかった。
ただ、そこからは輝く太陽が見えた。
穴いっぱいに広がる太陽のまばゆい炎の輪郭がくっきりと見えた。
暗い教室の中、アズライトにだけ見えた圧倒的な太陽は、彼を飲み込まんばかりに照らしていた。
膝立ちの、神に祈るような姿勢で太陽をじっと見ていると、
肉体を焼き尽くされ、灰になり、風に吹かれ、後には何も残らない、そんな幻想が浮かぶ。
太陽から目を離さずに、アズライトはすっと背伸びするように立ち上がる。
彼の背中では太陽が何もかもを焼き尽くさんばかりに燃えている。
重苦しい暗がりのなかに彼の白っぽい輪郭を鮮やかに浮かび上がる。
彼が一歩踏み出すと、日に照らされたほこりが火の粉のごとく舞い上がる。
部屋中が彼を見る。
時間が止まったみたいに静まり返る部屋の中を一人静かに音もなく歩む。
しおりに群がる智機たちは気圧されたのか後じさりする。
海渡るモーセように居並ぶ智機たちの間を抜け、壁にもたれかかるしおりを抱き起こす。
その目はいつもよりやさしい。
「しおり」
「おにーちゃん!」
名を呼ばれ、髪をなでられ、抱きとめている人の顔を見て、甘えるように首に両手を回し、頬をすり寄せた。
しばらくそうするうち、何も言わないでいるのに違和感を覚えたのか、
しおりは不安げにアズライトの顔を見上げた。
「どうしたのおにーちゃん、どうして何も言わないの?」
しおりはアズライトの深い青をたたえた瞳の中に、炎がちらつくのを見た気がした。
彼女には、それでアズライトの考えていることがわかった。
浮かべている穏やかな表情とは裏腹の決断を下していることも、何となくわかってしまった。
わかったから、涙が滲み出す。
「ウソ…でしょ?そんなの、ウソ。おにーちゃん、ウソだって言ってください。
だって、でないと、わたし、一人だけなんて絶対にイヤなんです、ずっとおにーちゃんと一緒がいい!
まだあのことだってお話ししてないし、それにおにーちゃん、
しおりのこと守ってくれるって言ったじゃないないですか、
守ってくれるって、言った…のに…
それに、それに……なのにどうして…どうして、こんなのひどいです…」
目にいっぱいに涙をため、声を詰まらせながら、しおりはアズライトの胸を叩く。
胸を叩かせながら、アズライトは髪を撫でてやる。
柔らかい髪の感触を指先に刻み込むように、滑らせるように、梳くように撫でる。
「短い間だったけど、僕はしおりのこと大事に思ってる。
ただ生きるより、もっと大事なこと、もっと大切なことをしおりには教えてもらったから。
本当はみんなが助かればいいんだけれど、それが出来ないのなら助けられる人は助かるほうがいい。
僕には力がある。
みんなを助けるには少し足りないけれど、しおり一人を助けるくらいはできる力が。だから…、ね」
青い目はしおりの顔をじっと見て、残された片手をしおりの頬にあてると、
次の瞬間、しおりのおでこにそっと口づけた。触れるだけの、軽い口づけ。
「しおり……僕にしおりを守らせて?」
「おにー…ちゃん……ずるいよ」
どこかあきらめたような、すねるような口調でこぼす。
「ごめんね、でも…」
欠けるべきふさわしい言葉を捜したけれど、アズライトはやはりそれを思いつかなかった。
かわりに、僕はもう十分に長生きしたから、笑って、残された右腕でしおりを強く抱きしめた。
肩に顎を乗せたままでしおりもつられて笑った。
「レティシアさんは?」
アズライトは壊れたモニターのほうを見ると、いいんだと言うように首を振った。
そっか、とだけ言って身を離すとしおりはアズライトの前にすっと立つ。
何か言いたそうにしていたが、何も言わず潤んで赤くなった目をぬぐった。
その手をそのまま振りぬくと、はじかれた涙の粒が宙を舞い、
無数の小さな花のような炎が暗闇にそれをきらきらと光らせた。
舞い散った火花は火となり、暗闇を火照らせ、静かに教室を焼き始める。
しおりはアズライトの手を両手で握った。アズライトもそれをそっと握り返してやる。
小さな手を通じてとくん、とくんと言う静かな脈動を感じながら、
アズライトは目の前の潤んだ双の瞳に声をかけそうになったが、
「いきなさい」とただ一言、彼は手の力を緩めた。
いつまでもうつむいたまま動こうとしないしおりに背を向けると、
アズライトは部屋を埋め尽くしている智機達に向き直った。
しばらくの間に智機はふたたび溢れ返らんばかりに増えていた。
「おにーちゃんが、レティシアさんに逢えるのなら」
背後から聞こえる声は舌足らずで、静かで、よくとおる声で、
「きっと、もう一度おにーちゃんに逢えるよね」
少し上ずった涙声だった。
アズライトは振り向かず、そうだね、と言った。
走り去っていくしおりの足音を背中に聞きながら、アズライトは大きく息をついた。
しおりが遠ざかっていくにつれ、部屋に満ちていた智機の数はどんどんと減っていき、
足音が消えるころにはたった一人が残っているばかりであった。
逃げ出すそぶりのないアズライトのために、スペアボディを無駄にするのはよろしくないと判断したのだろう。
智機はもう攻撃すら仕掛けてこなかった。
そんなことをせずとも、彼自身が勝手に自らに手を下すつもりだということが判っているのに違いない。
ときおり木の爆ぜる音がする。
湿気た校舎はうまく燃えないのか、
暗い部屋の隅で篝火のような火が少し燃えているだけでそれ以上大きくはならなかった。
差し込んでくる光を間にはさみ、彼らは黙って対峙していた。
柔らかなビロードのような光にへだてられた二人の距離は近くて遠い。
黙りこくる二人に火の音だけが聞こえる。
ふたたび木の爆ぜる音がする。沈黙を破ったのは智機だった。
「ゴド−、君のやっていることはナンセンスだ。」
「……」
「君だけなら逃げることも出来た」
「そう…ですね。そうだと思います」
まるで質問されることがわかっていたかのような、
それでいて自分の答えをもう一度確認するような口ぶりだった。
「まったく馬鹿げたことだ。解しかねる。なぜ、そんなことをする?
われわれと違って有機体はバックアップが取れないだろう?
哀れみか?それとも小娘に懸想でもしたのか?」
「どうしてかな」
少し考えるようにして首をめぐらせると、
窓にぽっかりと開いた穴から差し込んでくる光が誇らしげに闇を切り裂いている。
真っ黒な画用紙に引かれた一条の白のごとき光は
広がるほどに虹の七色へと分かれ、揺らめきながら輝いている。
「太陽がとてもきれいだから…」
言いながら、自分でも判ったような判らないような答えだと苦笑した。
ただ、アズライトにはそれが正しいことのように思えた。
腕組みをしてせせら笑う智機の目は相変わらず冷たく平板であったが、
その奥にわずかばかり興味がちらついているように見えた。
「誰かが言ったな」と言って智機は意味ありげに眼鏡を押し上げる。
「人間的、あまりに人間的」
二人の問答は穏やかに進み、穏やかに幕を閉じた。
その間、二人は一歩もその場から動かず、互いを見ていた。
あるいはその背後にある何かを見ていたのかもしれない。
光は彼らの間を真っ直ぐに透っている。
「もう、いいかな」
誰に言うでもなく呟いて、鬼作のほうへと歩み寄る。
「僕もすぐに行きますから」
アズライトは倒れて動かなくなった鬼作にすまなそうに微笑むと、
開いたままになったまぶたをそっと閉じてやり、
傍に転がっているガスボンベに迷うことなく真っ直ぐにナイフをつきたてた。
亀裂から青い炎が狂ったように彼に吹き付ける。
一瞬にして首輪に火がまわる
暗闇と静寂は破られ、光と轟音とが世界を領す。
光が溢れ、瞳を焼き尽くす。
「レティシアッ・・・」
閃光のなかに浮かんだいとしい人の顔は、――やさしく笑っていた。
「おにーちゃぁぁぁぁぁん」
炎がうずたかく伸び上がり、校舎は火炎のなかに飲まれ、崩れ落ちていった。
柔らかな下草の上にしおりは座り込んでしまった。
四肢が萎えたみたいに力が入らず、動けなかった。
「こんなのない、こんなの…
私だけ生きてても、意味ない。意味ないんだよ、おにーちゃん」
嗚咽は風に吹かれてゆく。
「もうたくさん、もう…たくさん」
膝をかかえて泣きはじめたしおりは太陽が南の空をとおりすぎるまで泣きつづけた。
【5 伊頭鬼作:死亡 】
【14 アズライト:死亡 】
―――――――――残り
12
人