178 来たりて、踊れ
178 来たりて、踊れ
前の話へ<< 150話〜199話へ >>次の話へ
下へ 第六回放送までへ
(第二日目 AM07:00)
苛々と足を踏み鳴らしているもは面白くないことでもあったからだろう。
ひとしきり廃村の中を回って帰ってきた月夜御名紗霧は、古風な民家の門前に立つ遺作を見てそう思った。
遺作に忠誠を誓ってから数時間。
巧みな弁舌と類まれなる俳優の才とで、彼女は着実に遺作の信頼を勝ち得てきた。
「何かめぼしいものはありましたか?」
「いんや、使えそうなものはほとんど誰かが持っていってやがるな・・・ご丁寧にいくつか罠まで仕掛けてやがった」
「そうですか、それは残念です。それでどこにもお怪我はなかったのですか?」
頷く遺作は彼女の微妙なイントネーションには気づかなかったようだ。
紗霧は空を見上げて何とも言えないため息をついた。
目に入る軒先の庇は随分と古いものなのか、いたるところ隙間だらけで、
透ってくる朝の光に彼女は眩しそうに目を細める。
視線を下げると砂利の上を小鳥が跳ね回ってはその間にくちばしを差し込んでいる。
彼女の身体を太陽がじんわりと温め、心地よい風が髪を吹きながす。
ほつれる髪を手櫛で整えると、紗霧はズック鞄からパンを取り出し、少し口にした。
機械的に咀嚼しながら、ときおりあたりを見まわすフリをして遺作の様子を盗み見る。
遺作は小指で鼻をほじりながら、呆けたように座り込んでいた。
バカみたいに大きなあくびをすると、無遠慮な視線で彼女を眺め始め、目があうとニタッと笑った。
そして誰に言うでもなく、盛り上がってまいりました、とこぼすといやらしく顔をゆがめた。
横顔に痛いくらいの遺作の視線を感じながらも無視して、小鳥のいるあたりにちぎったパンを撒いてやる。
「オイ、紗霧」
「何でしょう?」
ぼんやりと小鳥の観察をしていた紗霧はパンを喉に詰まらせてむせ返った。大きな瞳にうっすらと涙を浮かべる。
蟲惑的な黒い瞳に浮かぶ涙が、一層遺作を興奮させたのか、
「股を開け、今すぐだ」と弾んだ声で言った。
しばらく目をぱちくりさせたあと、紗霧は胸元をさする手を止めてズックの中身に目をやる。
そして、彼女は少し眉をひそめた。
「・・・遺作様」
「ァア、何だ?」
紗霧がすぐに求めに応じなかったのが気に食わなかったのか、遺作の声は不機嫌そのものだった。
今にも噛み付かんばかりの表情で彼女をにらみつける。
「この紗霧、遺作様に可愛がっていただきたいのはやまやまなのですが・・・
申し訳ありません、一人こちらに近づいてくるものがありますので・・・」
もう一度、ちらりとレーダーを納めてあるズックに目をやる。
「チッ、誰だ、そいつぁ?」
「残念ながら、このレーダーではそこまではわかりかねます。が、早急に何らかの手を打ちませんと・・・」
「お前のことだ、何か良い考えでもあるんだろうが?」
たった数時間の間に何があったのかと思わせるほど、遺作は彼女の作戦立案能力を買っていた。
人から蔑まれ、見下されて生きてきた遺作には、はじめこそ強制していたとはいえ、
その後のどちらかと言うと紗霧自身からの積極的な忠誠がひどく気持ちよかった。
あるいは、目の前に控えているのが、めったにお目にかかれないほどの美少女であったからかもしれない。
そんなことを分析しながら、縁側にふんぞり返る遺作に控えめに頷きかえすと、
紗霧は、僭越ながら、と前置きをして話し始めた。
「まず私が先行して囮になり対象の注意を引きつけます。
そして、対象が私に気づいた時点で私は遺作様に合図を送ります。
そこで満を持して遺作様に出てきていただき、不埒者を誅していただく、というのはいかがでしょう?」
取り立ててどうということもない囮作戦も、
紗霧の頭脳と忠とを信頼し始めた遺作には大層な妙案に聞こえたのだろうか、満足そうに何度も頷く。
紗霧もまた、最後の判断は委ねることで、遺作のちっぽけな自尊心をくすぐってやることを忘れない。
「よし、その作戦でいこうじゃねぇか」
案の定、気を良くした遺作は二つ返事で了承した。
「つまり・・・挟み撃ちだな?」
「そうなります」
機嫌よく頷いてた遺作は、了承したものの何か腑に落ちないところでもあったのか、頭をひねった。
「けどよ、それじゃぁお前が危ないんじゃねぇのか?」
「何をおっしゃいますか」
自分を凌辱した男に我が身を案じられるのは紗霧には屈辱でしかなかったが、そんな感情はおくびにも出さず、
気を取り直すように芝居がかった咳払いを一つすると、紗霧はとうとうたる申し開きを述べ始めた。
その申し開きもやはりどことなく芝居がかっていた。
「私の身を案じてくださいましたのに、とり乱してしまい申し訳ありません。
しかしながら遺作様、どうかこれだけは胸に留めておいていただきたいのです。
私のごとき小人の命を持って、遺作様のような丈夫のお命を救えるなど無上の喜び。
ましてやあなた様は私の主ではありませんか、主の御身の前には臣の身の軽きはまさに鴻毛ごとしです。
主の大儀のためには、臣は粉骨砕身、虎穴に入らずんば虎子を得ず、飛んで火に入る夏の虫、
あらゆる難事をすら厭うことはないでしょう」
私はこのように考えております、といって紗霧は静かに目を伏せて跪き、臣従の礼を示す。
「紗霧ぃ、お前ってやつは・・・、そこまで、俺のことを・・・」と遺作は言葉に詰まらせる。
片手で目のあたりを抑えているのは、心の汗を隠すためだろうか。
足もかすかに震えているように見える。
「遺作さんはよぉ、今まで何人も何人も女をモノにしてきたけどよぉ、紗霧ィ、おまえみたいに可愛いやつは初めてだ」
紗霧の言っていることをすべて理解できたわけではないがその気持ちは通じたのか、遺作はいたく心を打たれたようだ。
クシャクシャになった顔に張り付いているつぶらな、
けれども濁った彼の目にはいまやまごう事なき涙までもがうっすらと浮かんでいる。
「もう一つ、進言したいことがあるのですが・・・」
「何だ、言ってみろ」
まだ感動の余韻冷め遣らぬのか、鷹揚にうなずく遺作の耳に口を寄せると短く耳打ちした。
「そこまで考えてるとは、やっぱりお前はなかなか使えるじゃねぇか、えぇ?」
「お褒めに預かり恐悦至極でございます」
本当に嬉しそうに笑う遺作に、彼女はぺこりと頭を下げる。
垂れ下がる艶やかな黒髪を見て、ますますやに下がった笑いを浮かべる。
しかし、遺作は気づかなかった。
頭を下げている紗霧の顔もとても嬉しそうに笑っていたことに。
「さて、これでよし・・・と」
細かい打ち合わせのあと、遺作の目が届かないところまできて紗霧は大きく伸びをした。
ついに雌伏のときが終わろうとしていることを考えると、
彼女のあまり豊かとは言えない、けれども形の良い胸はいやがおうにも高鳴っていく。
性欲のことしか頭にない単純な遺作の考えを操作することなど、
幼少のみぎりから多くの大人を相手に立ち回ってきた彼女には造作もないことだった。
紗霧は遺作に嘘をついていた、
彼女がこれまでについてきた嘘を数え上げればきりがないが、その嘘は侵入者についてのことだった。
この村に侵入者がいるというのは本当のことだった。
しかし、先ほどズックの中を検めたとき、レーダーには侵入者を表す光点などどこにも映し出されていなかった。
侵入者の情報はレーダーから得たのではない。
先ほど一人で村の中をまわっていたときに、紗霧はその侵入者を見かけたのだ。
それは丁度自分と同じくらいの年かさの、灰色の柔らかそうな髪をした少女だった。
なぜかレーダーに映らないその少女は、手に何か長い筒状のものをもっていた。
紗霧はひと目でその少女が遺作の言っていたアインという少女だと目星をつけた。
ハンカチを取り出し、吹き出した額の汗をおさえる。
あのとき見かけた場所と、彼女が歩いていた方向とから考え合わせると、
ここで待っていればアインはまもなくやってくるだろう。
そこまで考えて、紗霧は地面に腰を下ろすと、日に焼けた民家の板塀に背を預けた。
「アインさん、早く来てくださいな」足をパタパタとやりながら、
足もとを跳ね回っている小鳥を愛でていると、
石畳の上を踏みしめるローファーの音が聞こえてきた。
一瞬、自分の足の音を聞かれたのではないかと思ったが、すぐにそんな考えは捨て、足音に耳を傾ける。
どうやら足音を消そうとしているようだが、何かに気をとられているのか、幾分散漫な消し方だった。
素人の紗霧でも注意していれば十分に聞き取れる。
やがて足音がすぐ側まで来たので顔を少しだけ覗かせてみると、いきなり額に硬いものを押し付けられた。
恐怖に体がかっと熱くなり、どっと汗が噴出すのがわかった。
黒く光るそれは、ショットガンの銃口だった。
そのとき紗霧は一瞬にして悟った。足音は消し損ねられていたのではなく、わざと聞こえるようにしていたのだ。
その証拠に、こうして間抜けな獲物が一人かかっているのだ、と。
そして目の前のおとなしそうな少女に少し戦慄を覚えた。
「何か用かしら?」
「初対面の人にいきなり銃を突きつけるなんて、いい度胸をしてますね?」と言いかけたがやめた。
大きく息を吸うと、彼女は自分を落ち着かせた。
上手く躍らせるためには、押すだけでなく時には引くことも必要だということを彼女は知っていた。
バカと鋏は使いよう。今、バカも鋏も彼女のすぐ側にいる、それも底抜けのバカと、鋭利に過ぎる鋏が。
互いに物言わず見つめ合う。
小鳥の鳴き声がやみ、やがて紗霧は口を開いた。
「単刀直入に申します」
この前口上自体が冗長ですけど、と思ったがこれも口には出さない。
「私を助けていただきたい」
神妙な顔でのたまった。
「そのまま、そのまま聞いてください。
もし、私が嘘をついていると思ったのなら、いつでも引き金を引いてくださってかまいません。」
「・・・・・・」
しばらくの逡巡のあとアインは銃口は突きつけたままで無言で頷いた。
礼をいうと、紗霧は自分が置かれた状況についての説明を開始した。
その説明は簡潔にして明瞭、まさに「説明」のお手本のような説明ではあったが、
そんな中に同情を引き出すニュアンスを巧妙に混入するあたりが彼女の侮れないところである。
もちろん、紗霧とて目の前の少女にそんなものが通用するとは思っていなかったが。
「私、あの男に脅されて仕方なく」といって説明を終えた。
紗霧はうつむいて身を震わせている。その手は白くなるほど固く握られていた。
「で、あなたはその男から逃れるための力を私に貸して欲しいのね?」
「ハイ、それに・・・」
紗霧はアインの表情をうかがった。
「その男は包帯まみれの男にあなたを殺す依頼を受けていると言っていました」
その言葉にアインの顔色がさっと変わった
(ビンゴ!!)
目の前の少女がアインであるならば、素敵医師のことを出せば、必ず食いついてくると思っていたからだ。
「その男は、今どこに?」
冷静な彼女にしては珍しく上ずりそうな声を必死に抑えているのが、紗霧には手にとるようにわかった。
それだけに、切り札になりえるその情報の核心を自分が持っていないことが残念だった。
紗霧の無言から悟ったのか、アインは残念そうにすいと目を細めた。
「いいわ、手伝ってあげる」
紗霧はもう一度、心の中で喝采を上げた。
遠くに紗霧の合図を見て、遺作は茂みの奥からそろそろと出て、背を向けているアインに襲い掛かった。
両手に持ったメスが冷たく光る。
「!」
あらかじめどこから掛かってくるのかわかっているアインは造作もなくそれをよける。
必殺の一撃を避けられた遺作は舌打ちすると、
続けざまに胴を薙ぐように鋭い蹴りを放つ。
薬物の力で強化された遺作の反応に少し驚きながらも、
身を低くしてアインはそれかわす。
そして、通り過ぎた蹴りの風圧で揺れた髪がおさまらないうちに、
跳ね上がるようにして遺作の顎に掌底を叩き込む。
そのまま押し倒すように腕を突き出し、
よろけてかしいだ遺作の股間めがけて思い切りつま先をけりだすが、
体勢を立て直した遺作はそれをあっさりと片手で止めた。
「へっ、もらったぁ!!」
少し興奮気味に叫ぶと、
アインの白い喉元に向けてメスを閃かせる。
それをアインは首の皮一枚を鋭利な刃に裂かせつつ、
上体をスウェーバックさせ、
そのまま身体をひねって思い切り足を払う。
「クゥッ」
仰向けにどうと倒れた遺作が顔を上げようとすると、
硬いものにぐいと押し戻された。
「包帯まみれの男をどこで見かけたの?」
銃口で頭を押さえつけたままたずねるアインは、息一つ切らしてなかった。
「ヘッ、何のことだかわからねぇなぁ」
「そう」
息も切れ切れになりながら、この期におよんでいきがる遺作を見下ろすアインの目は冷たい。
躊躇なくスパスの引鉄を引いた。
それで終わりのはずだった。
が、遺作はなおも不敵に笑うと超人的な反射神経と跳躍力で跳ね起きた。
ためにいくつかの弾丸は乾いた地面にめり込み、何を逃れた遺作はそのまま走り去ってしまった。
「待って下さい。もう大丈夫です」
後を追おうとするアインに慌てて声をかける。
「そう」
立ち止まって少し考えた後、さっさと立ち去ろうとするアインに紗霧はもう一度声をかけた。
「ありがとうございました」
「うん」
ぺこりと頭を下げる紗霧に頷くと、アインは踵を返した。
「あの、私もご一緒させていただけませんか?」
「・・・ここからしばらく北に行ったところの病院に魔窟堂という老人がいるわ。
誰かと一緒にいたいなら、そこに行きなさい」
「ご老人ですか?」
「ええ・・・とても良い人よ」
そう言って陶器のように白い頬をさすりながら、何かを思い出したのだろうかどこか遠い目をする。
彼女の顔はそのとき初めて少しほころんだように見えた。
「あの、あなたのお名前を・・・」
ふたたび立ち去ろうとしたアインを呼び止める。
「ファントム・・・死に切れなかった地獄の亡霊よ」
答えたアインはもういつもの無表情なアインだった。
また何か思い出したのか、少し寂しそうな表情に見えたが、紗霧はそんなことは意に介さずに、
「いや、そんなセンスのない通り名みたいなのを聞いているのではなくて、
私はあなたのお名前をお聞きしているのです。
一般にファーストネームとファミリーネームとに分かれているアレです、おわかりですか?
中にはミドルネームを持っているレアな方もいますけどね」
しれっとそんなことを述べる。
「アインよ。他に名前はないわ」
点々と続く地面の上の赤い斑点を追って紗霧は歩く。
だんだんと大きくなっていく血の跡は、間違いなく指定した場所へと続いていた。
「おぉ、紗霧、何とかしてくれ、痛くてたまらねぇ」
周りに立ち並ぶ民家よりもひときわ小さな家の勝手口の前に遺作はいた。
勝手口の両脇にはどぎつい緑色の葉に混じってちらほらと小さな花を咲かせているかつて生垣だったものがある。
左手で腹を抑えてうずくまる遺作の頭の上に、その花が舞い落ちた。
「ッ・・・フフフッ」
頭から花が咲いたような形になっている遺作を見て、紗霧は堪えきれず笑い出した。
それは彼女に昔見たアニメのキャラクターを思い出させた。
「何がおかしい」
「いえいえ、こちらのことです。
それにしてもちゃーんと待ってたんですね、エライエライ。本当にバカと言うのは御しやすくてたいへん結構」
「てめぇ、舐めてやがるのか?」
「舐めるだなんて、とんでもない」
恫喝するような遺作の声を平然と流す紗霧は、大きな目をさらに大きく見開いてとても心外そうな顔をした。
「卑しくも人間の身でありながら、あなたのような生ゴミを舐めるだなんて、正気の沙汰じゃないですね」
「それがお前の正体ってわけか?」
遺作は歯を固く噛み合せた悪鬼のごとき形相で、苦々しげにはき捨てた。
「ご期待に添えましたかどうか・・・」といって紗霧はにっこり笑う。
「ヘッ、へへ、生ゴミとは言ってくれるじゃねぇか、ええ?
その生ゴミに入れられて嬉しそうにアンアン言ってたくせによ。
俺が生ゴミなら、ぶちこまれたお前はさしずめゴミ箱ってとこか、なぁ?」
嘲笑うように遺作がそう言った瞬間、嬉しそうに笑っていた紗霧の顔からスゥッと笑顔が消えた。
彼女の整った顔から表情が消えると精緻な人形のようで、ぞっとするばかりに美しかった。
「へへへ、なんだぁ、怒ったのか何とか言ってみろよ?」
いい気になってせせら笑う遺作に、ふたたび笑いかけると紗霧は背中からするすると光るものを取り出した。
「なっ、金属バット、てめぇ、どっからそんなもんを?」
「そんなこと、あなたに答える必要があるでしょうか?」
笑顔で答えて、紗霧は遺作の左の鎖骨あたりをめがけて思い切りバットを振り下ろした。
「うぐぉ!!」
もんどりうって転げまわる遺作につかつかと歩み寄ると、
がら空きの背中にさらにもう一撃、骨の砕けるいやな音がした。
「やれやれ、まだ生きているんですか、まるでゴキブリですね。しつこい男は嫌われますよ。正直、辟易します」
腹には銃創、右腕は既になく、左鎖骨と背骨は骨折、どうしてまだ生きているのでしょう、などとぼやきながら、
ぐったりとした遺作を引きずるようにして紗霧は集合場所に決めていた民家の中に引きずり込む。
勝手口から中に入り、されるがままに畳の上を引きずられる遺作は足に何か引っかかりを感じた。
振り返ると空気の中に何かが細くチラチラと光っている。
「ピアノ線だと?」
何かに感づいたのか、あたりに視線をめぐらせた遺作は古びたタンスを認めて蒼ざめた。
「ああ、この家はさっき私が点検したのでご存知ないかもしれませんが、
この家にもたくさん罠が仕掛けてありますから」
「てめぇ、はなっからこいつをぉッッ!!」
「ご名答〜」と紗霧がうれしそうに叫ぶのが聞こえた瞬間、遺作の足の上にタンスが覆い被さってきた。
地響きにも似た振動とめきめきという木の割れるような音に続いて、
倒れた衝撃で舞い上がった夥しい量のほこりが部屋中に溢れかえった。
年季の入ったタンスには一体何が入っていたのか、相当な重さらしく、
遺作の足を押し潰し、畳を抜けて床にまでめり込んでいた。
「あら、気絶しないのですか?ハワードとか行ってたのはマジだったのですね」
紗霧は満足そうに遺作を見下ろしながら、育ちのよさをうかがわせるゆっくりとした口調で言った。
「ぱわーどだ」
「ポマード?」
「ぱわーどだ」
「ハイハイ、そんなに怒鳴らなくても聞こえてますよ。年寄りはむやみやたらと怒りっぽいからいやなんです。
まったく、年はとりたくないものです。それにしても、随分と余裕があるじゃないですか」
歯軋りが聞こえてきそうなくらい、強く歯噛みする遺作の頭をバットで小突きながら、
紗霧は大仰にぽんと手を叩いて見せた。
「あ、そうそう、それにしても、残念でしたねぇ?」
「何がだ」
「アインさんという方をお昼までに探し出さなければならないんでしょうに、
その足ではもう探しにはいけませんね?」
遺作は何のことかわからないという風に紗霧を見つめる。
無表情を装ってはいたが困惑した遺作の視線は紗霧をいたく喜ばせた。
「さっきの彼女、アインさんというらしいですよ?」
おまけに彼女はどんどんあなたから遠のいていきますしね、とはしゃぐみたいに付け足す。
「てっめぇぇぇ、何から何まで癇に障る野郎だなぁッ!」
「私は・・・野郎ではありません」
怒り狂って唾を撒き散らす遺作の視線をあっさりと無視して、
バットを振りあげると、ゴルフスイングの要領で遺作の頭を打ち抜いた。
「ま、どうせお昼には死ぬことですし、私がわざわざ手を下すまでもないでしょう。
はい、これ、末期の水です。私も武士の情けというものを見習ってみました。喉が乾いたら飲んでくださいな」
突っ伏したままの遺作にかまうことなくそう言うと、
ぎりぎり手がとどがないくらいのところに透明な液体の入った小ビンをおく。
「まぁ、お飲みになれたらの話ですけどね?」
気を失ったままの遺作に笑顔で告げ、紗霧はそこを立ち去った。
ところどころに草のはえ出てきている石畳を踏み鳴らしながら、彼女にしては珍しく鼻歌など歌っている。
道の両脇にはどれもこれも同じように見える民家がずらっと建ち並んでいる。
この道をまっすぐに行けば、アインの言っていた病院にたどりつく。
晴れて自由の身となった喜びに浸るのもつかの間、これからのことを考えるとけして心からは喜べない。
綺麗な形をした彼女の頭の中は、はやくも生還のための次の方策を練り始めていた。
しばらくして背後からおよそ人の発するものとは思えない、身の毛もよだつような絶叫が聞こえた。
「水と酸の識別も出来ないとは・・・、
あれだけ粗末ななおつむですとさぞかし悩みなく幸福な人生だったことでしょう。
まったく、うらやましい限りです。原生虫のような人生・・・私は真っ平ゴメンですけどね」
知っている方は知っているかと思うけれど、彼女はわりと完璧主義者なのだ。
「まぁ、乙女の貞操は高くつくってことです」
ポニーテールの上の黒いリボンが気持ちよさそうにひらひら揺れる。
北上しながら、彼女は今後の身の振り方を考えていた。
【遺作】
【現在地:山道】
【スタンス:女は犯す、アイン殺害】
【所持品:なし】
【備考:右腕喪失、左鎖骨・背骨骨折、腹部に銃創、両足骨折、呼吸困難、身体能力↑
第二日目AM12:00に禁断症状でショック死】
【月夜御名沙霧】
【現在地:同上】
【スタンス:???】
【所持品:レーダー、メス数本、薬品数種】
【アイン】
【現在地:村落付近】
【スタンス:素敵医師殺害】
【所持品:スパス12】
【備考:左眼失明、首輪解除済み】