179 ひなたの桃色

179 ひなたの桃色


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(第二日目 AM07:30)

うらびれた医院のドアは、それ相応にうらびれており、スチール製のドアノブはひやりと冷たい。
仁村さんが眠り始めてから、もう3時間ほどたった。
けして十分な睡眠時間とはいえないけれど、魔窟堂さんの言う通りあまりここに長居をしているわけにはいかない。
こうしている間にも、犠牲者は増えていくのだから。
それでも俺はできるだけ音を立てないようにノブを回す。
ドアの向こうの景色のなかで桃色が最初に目に入った。
健康そうな若々しい唇の桃色、ついでそこから色の波紋が広がる。
朝の太陽に暖められた部屋の中はじんわりと染入るようで、カーテンの白が風にはためき、
部屋を染め上げる光がリノリウムの床を柔らかく光らせる。
簡素な部屋のなかに、俺はほんのりと仁村さんの匂いを嗅いだ気がした。
実際には医療施設に独特なあの消毒液の匂いがするわけだが、
真っ白なシーツの上に横たわる彼女の寝顔を見ているとなぜかそんな気分になった。
薄い布地に包まるようにして眠る仁村さんの穏やかな寝息を聞きながら、俺はしばらく彼女を観察した。
しげしげと観察するのは失礼かとも思ったが、
彼女が起きているときには顔すらまともに見られないのだから仕方がない。
右脇を下にして眠る彼女は胸のあたりまで引き上げられたタオルケットから、そっと左手をのぞかせていた。
夏草を思わせるような、ほっそりとした手。指先にぬめ光る爪は綺麗に切りそろえられている。
右手を折り重なるようにその上に置き、小首を曲げてそれを眺める気色、小さな背中も少しゆるいカーブを描く。
膝も軽く曲げ、まるで胎児か赤ん坊のような寝方をしている彼女は
ミルク色の頬をほんのりと薔薇色に染め、その上に一束ねの髪を垂れさせていた。


太陽は雲に覆われたのか、にわかに部屋のなかに影を落とす。
枕もとに置かれたガラス製の水差しのなかから光が消える。
そばに置かれた薬ビンは彼女のものだろうか、おさめられている色とりどりの薬もその色を褪せさせた。
あまり体の大きくない彼女は、その寝相のためベッドの多くの部分を余らせたままにしている。
ぽっかりと開いたその空間は、ほとんど俺のために空けられていたのではないかとさえ思える。
というのはおそらく俺の一方的な思い込みで、単純に俺が彼女の横で眠りたいと思っているだけなのだろう。
まだ、出会って一日しかたっていないのに、そんなことを考えるのは同じ町の人間の気安さからだろうか。
もしくは、見知らぬ土地に突然呼ばれ、殺し合いをせよと言われた異常な状況が、俺を蝕んでいるのかもしれない。
危機を共にした男女は結ばれやすいという話を何かで読んだ。
俺もそうなのだろうか。
そんなことを考えながら、ベッド脇まで来た俺はあらためて彼女の顔を眺めた。
よほど深い眠りらしく、俺がすぐ側に立っても彼女は目覚めなかった。
視線ははずさずにベッドのふちに手をかけて、膝立ちになる。
俺の目の高さに、穏やかに眠る彼女の顔がきた。
蕾のように軽く開かれたふっくらと形の良いあの桃色が、呼吸に合わせてふるふるとはかなく震えている。
彼女の薄いまぶたはまるで何かを待っているみたいに閉じあわされたままだ。
本当は、彼女はとっくに目を覚ましていて、俺をからかって遊んでいるだけなのではないか。
そんな考えがよぎるが、俺は蜜蜂が花の香に引き寄せられるように少し腰を浮かせて、
互いの吐息がかかるくらいのところまで顔を近づけてみる。
目の前にいる彼女の表情は変わらなかった。
太陽も相変わらず雲に隠れたままで、彼女のうえにも紗のような影を落としていた。
俺はその薄物の奥を覗きたくて、目を凝らす。


そのとき、シーツの端から少しだけ覗かせていた彼女の左腕がすっと伸ばされ、軽く押すように俺の肩に触れた。
一瞬、彼女が目覚めたのかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。
彼女の顔を見る。シーツの上に広がった髪は静かなままだ。
さすがに高鳴った心音はすぐには収まらず、落ち着こうと少し多めに息を吸った。
すると手を伸ばした拍子にはだけられたシーツのなかから、今度は濃い彼女の匂いが漂ってきた。
乳臭いというのとは違う、不思議に心の落ち着く匂いだった。
良い匂いだと俺は思った。
軽く、ごく軽く触れられた左腕はしなだれかかるように置かれたままだ。
そっと息づく唇もまだ開かれたままだ。
もっと近くで彼女を見たくて、もっと近くで彼女の匂いをかぎたくて、俺は彼女に顔を近づける。
強くなった彼女の匂いに、俺は眩暈に似た強烈な感覚を味わう。
目と鼻の先に彼女が眠っている。
俺は唾を飲んだ。不自然なくらいその音は大きく聞こえた。
いま目を覚ました彼女は驚くだろう。
ひょっとしたら、ものすごく怒るかもしれないし、悲しむかもしれない。でも、それでもかまわない。
俺は、単純に、彼女の唇を吸いたいと思った。

雲間から顔を覗かせる太陽はふたたび部屋の中を照らし出し、じんわりと暖めはじめた。
ベッドの上に体を起こした彼女は相変わらず頬を染めている。
「寝顔見られちゃったんですね、恥ずかしいな」と言って、彼女はシーツで顔の半分までを隠す。
結局、俺は何もしなかった。威張るほどのことじゃない、当たり前のことだ。
寝込みを襲うなんてことは、男のやることではない。没義道もいいところだ。
ましてや、俺と仁村さんは数時間前に会ったばかりなのだから。
けれど、あのとき突然の来訪者がなければ、そのことを魔窟堂さんが告げに来なければ、俺はどうしていただろう。
いま、この部屋のなかには俺のほかに四人の人間がいる。
魔窟堂さん、広場さん、仁村さん、そして居並ぶ俺たちの前に毅然と立つ来訪者。
黒い髪を黒いリボンで括った、目を瞠るばかりに端正な彼女は、凛と澄んだ声で名乗った。
月夜御名紗霧。
俺には、彼女が黒い魔女のように見えた。



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