174 Morgenrote
174 Morgenrote
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(第二日目 AM05:30))
長く暗い森を走り抜ければ、一体どこにたどり着けるのだろう?
咲き誇る花園?
雪舞う氷原?
あるいは、遥かアルカディアへすら、いつかはたどり着くことができるのだろうか?
彼、アズライトは砂浜にたどり着き、立ち尽くした。
真白い月がその美しいかんばせを天に晒し、
見わたす限り広がる夥しい白砂と重苦しくうねる青黒い海原とをほの明るく浮かび上がらせていた。
目の前に道は続かず、彼にはもう逃げつづけることさえ許されなかった。
風は凪いでそよとも吹かず、昼のうちにあれだけ騒がしかった鳥や獣の声もなく、
波音のほかには何の音も聞こえてこなかった。
あたりには軽い眩暈を誘う不思議な汐のにおいがたちこめていて、
なにか体が蝕まれていくような、病んでいくような不思議な感覚につつみこまれていた。
波の揺り返す単調な音と奇妙な匂いとが彼を憂鬱にさせた。
ひどくなる眩暈に押されてアズライトは、倒れこむように砂の上に腰を下ろした。
そして、ゆっくりと流れ落ちていく時間の滴りを眺めた。
しばらくして彼は力なくうつむいて、静かに肩を震わせはじめた。
ふたたび動き出した生ぬるい潮風が彼の背中をさわりと撫でては静かに通り過ぎていくなか、
月は群雲に呑まれ、暗く広い夜空が眷属たる無数の星達を従えて、逃亡者の頭上に重くのしかかっていた。
(レティシア…)
もう何も考える気にはなれず、押しひしがれた心の中で呆けたように彼は同じ言葉を繰り返していた。
ここから見上げる空と、彼女が見上げる空とはどこかでつながっているんだろうか?
そんな他愛のないことも考えた。彼女のことを考えていると幸せだった。
レティシアとの甘い思い出に浸ったままで死ねるのなら、それも悪くない。
むしろ、それに勝ることなどないのかもしれない。
生き続けることがこんなにも苦しいのなら、喜びのうちに死に絶えるのだ。
アズライトはそんな自分の考えに口の端をゆがめた。
レティシアを思いながら、いつしか彼は浅く短い眠りに落ちた。
「やっ・・・だっ・・・」
暗がりから弱々しい拒絶の声が聞こえてきた。
悲しみのうちにもどこか甘い感じを残した女の子の声。懐かしい声。
「やめ・・・やめて・・・」
寝覚めのぼんやりとした頭でもこの声を、彼が聞き違えるはずがなかった。
もっとその声を聞きたくて、声のほうに近づこうとしても、磔にされたみたいに指先すら動かせなかった。
せめてもう少しはっきりと聞きたくて、真っ暗な空間に耳をそばだてると、
闇が払われ、なぜか急にあたりがはっきりと見えるようになった。
「!」
目の当たりにした光景にアズライトは思わず息を飲んだ。
この光景はいつか見たことがある。
記憶を落として世界中をさまよったすえにたどり着いた砂漠の果て、山のふもとのひなびた小さな町、
うらびれた酒場の中、カウンターから連れ出される女の子、誰も彼もが笑ってそれを見ていた。
彼女が身に着けている飾り気のない白い服にはいくつものかぎ裂きができており、
あちらこちらに凌辱の証が残されたままになっていた。
満足な食事も与えられていないのか少しやつれて見えるなか、
透けるように軽やかな金色の髪と薄青色の瞳とが鮮烈に人の目をひきつける。
その子がいま片腕の男に組みしかれていた。
この光景には確かに見覚えがあった。
「レティシ・・・ア・・・?」
呼びかけてもこちらの声は届いていないのか、彼女はちらりとも見ず、何も答えなかった。
「あ・・・うぅ・・・」
細い腕で男の大きな体を押し返そうとするが、男の体は岩のようにびくともしない。
覆い被さる男は片手で器用にレティシアを押さえつけながら、服の裾を捲り上げた。
骨ばった大きな右手で彼女の細腰をがっちりと固定すると、
小さな体を引き裂くようにして、異様に大きなペニスを少しずつ少しずつ挿入していった。
よほど痛むのか、レティシアの苦悶の声が男の動物じみた荒い息遣いの合間に混じる。
アズライトのいる場所からは男の顔を確かめることはできなかったが、
腰を動かすたびに男の背中の浅黒い肌に短い黒髪が踊るのが見えた。
レティシアを救うことも出来ず、目をそらすことも出来ず、アズライトは泣き出しそうになった。
それでも男は何かの儀式のように淡々とセックスを続け、やがて果てた。長い射精だった。
ことを終えて立ち上がった男は丁度アズライトと同じくらいの背格好で、手早く衣服の乱れを正した。
そして、ぐったりと横たわるレティシアを見下ろしたあと、ゆっくりとした足取りで立ち去っていった。
凌辱の間もずっと背を向けていた男の顔はついに見ることができなかったが、
アズライトには立ち去っていく見知らぬ男のことよりもレティシアのことが気になった。
「どうして・・・・・・ひどいこと・・・するの?」
彼女の声は今までの舌足らずな声とは感じの違う、柔らかくも毅然とした声だった。
男は立ち止まり、初めてその顔をこちらに振り向けた。
油の切れた機械のような、緩慢でぎこちない動きだった。
「あぁっ・・・」
その顔を見て、アズライトは短くうめいた。
振り向いた男の顔を見まちがえるはずがなかった。
美しい藍色の鉱物を思わせる気弱そうな瞳が悲しげにこちらを見ていた。
愛する人を凌辱した男の顔面には、こともあろうによく見知った顔がはりついていた。
彼はもう一度うめいた。
それはアズライト自身の顔だった。
そこで夢はふつりと途切れた。
目覚めても最後の瞬間のレティシアの顔がいつまでもちらついて離れなかった。
目の前で自分を捨てて歩き出す男の顔を見て、彼女の顔は醜く歪んだ。
どこか空ろなその顔は、自分を見つめるときの桜姫の無表情な顔に似ていた。
まるで穢れにみちた罪人を見るような、
哀れみと蔑みとをその裏に潜ませているあの顔だった。
桜姫を作ったのは、目の前で人が死んでいくことに耐えられなかったからだ。
彼女を凶にし、彼女に生き続けることを押し付けた、しかも半永久的な生を。
はじめ桜姫はちょうど今のさおりのようにどこへ行くにもついて来て、ためらいもなく「マスター」と呼んでいた。
「主人には絶対服従」という凶の性質、どこまでも従順な桜姫の無垢に恐怖して彼女を捨てた。
自分のために、平気な顔で。
火炎王に連れられて、初めて対峙したときの彼女のどろりとした目。
あのとき、彼女が歪んで見えた。彼女を歪ませてしまった。
そしてまた、さおりを創り、彼女も捨てて歪めようとしている。
主を失った凶よりも哀れなものは無い。
そのことを身をもって知りながら、またふたたび同じ愚を繰り返そうとしている。
仰向けになると涙が溢れ出し、静かに頬を伝った。
身勝手に逃げ出した挙句、泣くことしかできないような卑怯な自分が情けなくてたまらなかった。
しかもどうしようもなかった。努力すれば変われるというが、そんなのはウソだ。
変わったと思い込んでいるだけで、本当は何も変わりはしない。
記憶を落としてより数百年もの間そうして生きてきたのだ、いまさら変わることなどできるはずがない。
(だからって、そんなの・・・桜姫にも、あの子にも・・・関係ない)
だから泣いた、一人で声を殺して。
できることなら、もうこの世から消えてしまいたかった。
・・・消える?
突然の思いつきに少し興奮気味にアズライトは上体を起こした。
彼は首輪には盗聴器のほかに爆薬というものが仕掛けられていると鬼作が言っていたのを思い出した。
無理に外そうとすれば爆発するのだ、と。
甘美な空想がよぎる。闘うことも思い切れず、レティシアにも会えない。
一体どうして思い悩んでまでこれ以上生きている必要があるだろうか?
卑怯な逃亡者にしかなれないのならば、せめて死んで楽になりたいとそう思った。
レティシアに満たされて、思い出とともに魂の平穏と消滅を。
(デアボリカは限りなく不死に近いけれど、首が吹き飛べば・・・)
そう考えると彼の心はすっと楽になった。自然と頬がほころぶ。
(何もかも捨ててしまおう。しおりには悪いけれど、どうせ1度逃げ出したんだし・・・同じことだよね。
ただ・・・ゴメンね、レティシア・・・僕、もう君を・・・探せない)
どこかで空を眺めている彼女のことを考えた。
目を閉じて首輪に手をかける。
数百年の迫害と彷徨の記憶が一瞬にして蘇る。
彼が殺してきたたくさんの者と、彼を殺そうとしたたくさんの者たちの顔が浮かんでは消えていく。
レティシアの顔も、桜姫の顔も、しおりの顔も。
(僕はあのときレティシアを救えなかった)
(僕はあのとき自分で創った桜姫を壊した)
(僕はあの時しおりを捨てた)
(それを知れば、彼女も壊れる)
(でも・・・まだ・・・今なら・・・今なら・・・)
首輪を引く力を緩めて、何時間となく眺めていた海のほうにもう一度顔を向けた。
薄紫色に染められた暁の空に白雲が幾筋かたなびくのを背にして、
昇りはじめた朝の太陽が空と水平線の一髪をまばゆく白ませている。
潮風が背後の森へと吹き抜け、アズライトはあのとき聞いた鐘の音をもう一度聞いた気がした。
鳴り響くこの鐘の音は告白と贖罪の時を告げる鐘の音だ。
そう思ったアズライトは何者かに操られるように後ろを振り返った。
「しおり・・・」
「ここにいたんだね、おにーちゃん」
駆け寄ってくるさおりの耳がピョコンと揺れた。
何も言えないでいるアズライトの隣に、よいしょ、と言って腰を下ろすと、
彼女もそれきり黙って海のほうを眺めはじめた。
太陽がしおりのきめ細かい肌をなめるよう照らし出し、淡い陰影を落とす。
光線の加減か、うつむくしおりの表情はときおり少しこわばって見えた。
「しおりが・・・悪い子だったからですか?」
寂しそうな声でしおりがポソリとこぼした。
「それは・・・違う・・・」
アズライトが否定しても、しおりはただ顔を伏せて洟をすするだけだった。
胸元のコートを大切そうに抱きしめている彼女の手が震えている。
アズライトはその手に右手を重ねた。
「僕の話を聞いてくれるかい?」
しおりはしばらくの間黙っていたがはやがてそのままの姿勢で頷き、顔を上げた。
頬に涙の跡が残したその顔にはおよそ表情と呼べるようなものが無かったが、
アズライトをまっすぐに見返す彼女の目は期待と不安の色を滲ませていた。
大きく深呼吸したあとアズライトは話し始めた、ひと言ひと言言葉を選んで慎重に。
デアボリカのこと、レティシアのこと、凶のこと、桜姫のこと、逃げ出して今ここにいること。
しおりは一度も口を開かずに、黙ってそれを聞いていた。
「僕はたくさんのひどいことをしてきた、君にも他の人にも・・・。
なのに、いつだって逃げ出して、今だって君から逃げ出して、この首輪を引きちぎって死のうって・・・
けど、思ったんだ。
どうせ死んでしまうのなら、逃げ出して死ぬんじゃなくて、誰かのために死ねるんじゃないかって。
だから、許してなんて言えないけれど、死んでしまう前にもう少し・・・がんばってみようと思うんだ」
話すうち、波の音も汐の匂いももうそれほどアズライトには気にならなくなっていた。
話が終わっても、しおりは長いあいだ彼の目を覗き込んでいた。
藍色の綺麗な瞳の奥に何か大切な宝物を探すような、そんな目つきだった。
あるいは本当にそういうものを探していたのかもしれない。
アズライトはただ黙って彼女の言葉を待っていた。
そして、どんな言葉であってもそれに従おうと心に決めた。
やがて立ち上がった彼女がお尻についた砂を払うと、砂はきらきらと光りながら地面に落ちていった。
「な〜んだ」
「え?」
「そんなことでなやんでたんですか、おにーちゃん?」
声を弾ませる彼女は先ほどとはうって変わって、朝焼けの空に相応しい晴れやかな顔をしていた。
「すごく真面目なお顔してたから、もっとすごいことかと思っちゃった」と言って笑った。
しおりは据わったままのアズライトの頭に手を置き、そしてそのまま優しく彼の頭を撫でた。
「お顔をあげてください、おにーちゃん」
子を呼ぶ母親のような優しくて静かな声だった。
彼女はアズライトに顔を近づけると、彼の額にかかる髪をかきあげて、両手で頬をそっとつつんだ。
そして、少し身をかがめてアズライトのおでこに唇をあてた。
アズライトはそのまま動かず、目の前で紅色のワンピースが風をはらんではためくのを見ていた。
白い砂の上に赤いワンピースの薄い影が躍っていた。
長い口づけのあと、頬を両手で挟んだままでしおりはもう一度微笑んで見せた。
やはり素敵な笑顔だった。
「ぜーんぶ、許してあげます」
「・・・え?」
「おにーちゃんがしてきたことも、これからするかもしれないことも、全部。しおりは許してあげます。」
「でも、君にも酷いことを・・・・・・」
「許してあげます」
大きく頷いて、請合った。
「ぁ・・・」
堪えきれず、アズライトの目に涙が溢れ出した。
しおりにすがりつくようにして泣くうち、それは激しい嗚咽にかわっていった。
しおりはアズライトの頭を抱き寄せると、小さな子をあやすみたいに頭を撫でた。
「これからも、おにーちゃんて呼んでもいいですよね?」
「うん!」
「それから、もう絶対に逃げたりしないで下さいね?」
「うん、うん!」
しおりのなだらかな腹の温かみを感じながら、アズライトは難度も難度も頷いた。
次から次へと溢れてくる涙がしおりの服に染み込んでいく。
「ほら、もう泣かないで、ね?お顔クシャクシャだよ」
「ゴメンね、僕・・・嬉しくて・・・とっても嬉しくて、だから、しおり、僕・・・せめて・・・」
「なに、おにーちゃん?」
「しおりを・・・抱きしめても・・・いいかな?」
「うん、いっぱいして、おにーちゃん!」
照れて顔を真っ赤にしたアズライトの質問に、しおりは顔をパッと輝かせた。
恥ずかしそうに涙を拭いながら立ち上がるアズライトに、しおりのほうから飛びついてきた。
腕が一つしかないのがひどくもどかしい。
二人の心臓がくっついて一つになってしまうくらい強く、しおりの小さな体を引き寄せる。
両手を腰にしっかりと回してしおりは笑った。
アズライトも笑った。二人とも泣きながら笑っていた。
「行こうか?」
身を離し、少し照れくさそうに二人は笑う。
「エヘへ・・・・・・ァ・・・クチュンッ!!」
可愛らしいクシャミをしたしおりに、切り裂かれてすっかり丈の短くなってしまったコートをかけてやる。
「わぁ・・・」
しおりはとても嬉しそうに笑って、ありがとうございます、と言ってピョコリと頭を下げた。
しおりの喜ぶ顔を見て、アズライトも優しく微笑む。
海岸線に立ち並ぶ木々の葉が太陽を浴びて七色に光をはじく。
夜が明け、太陽とともにこの世の何もかもが新生する。
月は西の彼方へと没し、太陽が東の彼方より差し昇る。
手を引かれながら、アズライトは泣いた。
嬉しくてたまらなかった。
(レティシア…)
心の中で名前を呼ぶ。たったそれだけのことで、とても優しい気持ちになれた。
(僕はきっと、帰れない。ごめんね。
でも、君が好きになってくれたのは、きっと帰らないことを選ぶ僕だから。
僕は最後の瞬間まで、戦うね?)
前をむいて歩いてこうと思えたのは、この偶然の美しい陽光のせいなのかもしれない。