103 わたしとあなた
103 わたしとあなた
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(「藍」の10年)
世の中には、2種類の人間が居る。
優しい人と、優しくない人。
優しい人とは、私のことを最優先に考えてくれる人。
優しくない人とは、私のことよりも自分のことを優先してしまう人。
それが、松倉藍(No.19)の認識だ。
それは、とても甘ったれた、自己中心的な考えだ。
しかし、彼女の生い立ちを鑑みると、その幼い認識も仕方がない部分がある。
彼女は10年前に「獣」に取り憑かれて以降、殆どの時間を獣の意識下で過ごしてきたからだ。
社会生活で学ぶべきことは獣が学び、彼女はその深層から眺めているだけだったからだ。
彼女の心と知性、そして判断力は、小学校低学年のまま成長する機会を与えられなかったからだ。
では、そんな彼女にとっての獣とはどちらに属するのか。
「どちらにも属さない」が答えだ。
なぜなら獣は彼女のもう一つの顔。もう一つの心。もう一つの声。
藍にとっての獣とは、鏡に映ったもうひとりの「藍」そのものなのだ。
憑依当初、獣は、自分の記憶を持っていなかった。
獣は、藍と対話し、藍を模倣し、藍を演じることでゼロから自らを作り上げた。
この10年間、経験と記憶、対人関係の全てを共有知識として価値観を育ててきた。
その意味では客観的に見ても、クローン的な見地で、獣と藍は同一人物と言えるかもしれない。
だが、それもこの秋までのことだ。
悠夏の神社が堂島によって燃やされた時……獣の現世での本体である絵馬が焼失した時、
獣はイズ=ホゥトリャの記憶を取り戻し、番人として為すべきことを思い出したからだ。
藍はもうひとりの自分が、全く別の価値観や、全く知らない知識に基づいた言動を
取るようになったことに、戸惑いと違和感を隠しきれないでいた。
それが、この島に来る直前のことだ。
そして、今……
(1日目 13:36)
病院の南、渡り廊下の先にある民家(病院主の自宅)のキッチンで、藍は御飯が炊けるのを待っていた。
食卓の上には、下手なりに努力したという苦労の跡が見られるおかずが並べられている。
(早くご飯炊けないかな……神楽ちゃんは美味しいっていってくれるかな?)
頬杖をついて、ぼうと炊飯器を見つめている藍。
彼女のその様子に、危機感は感じられなかった。
自分が他の参加者に殺されるということはまるで心配していないからだ。
神楽が「守る」と約束したその言葉を、迷うこと無しに信じ込んでいたから。
獣が手を出せない存在であること、死にかけた藍を瞬時に回復させたことで、
彼女の中の神楽像は絶対的な……崇拝対象に近い存在となっていたのだ。
しかし。
彼女の中で神楽の存在が膨らめば膨らむほど、獣に対する不満が、相対的に膨れ上がって来る。
(どうして堂島を殺さなくちゃいけないの? 殺したら私まで死んじゃうのに。
私は死にたくないのに。それが決まりだからって、あんまりだよ。
大体あの子は……)
「……あの子?」
思わず口をついたその言葉は、とても奇妙で、新鮮な響きだった。
「あの子……」
もう一度口にする。
今まで漠として正体が見えなかった戸惑いと違和感が、輪郭を持ったものとして感じられてくる。
「あの子!!」
もう一度口にする。今度は確信を込めて。
藍が10年来自分と同一視していた獣を、初めて別の人格と認識した瞬間だった。
(そうだよ、あの子だよ。あの子がおかしくなっちゃったんだよ!!
あの子は、優しい神楽ちゃんを敵だって言う。
あの子は、お兄さんよりもヤマノカミのほうが大事って言う。
全部、私と違う考えだよ。全部私が嫌だって思うことだよ。)
「全部あの子の……
ううん、こいつのせいなんだ。」
獣を自分と切り離して考えることで、ジレンマが氷解してゆく。ぱらぱらと音を立てて。
目の前が、ぱあっと明るく開ける。
それは藍が今まで感じたことのない、壮大で気分の良いカタルシスだった。
(いつもこいつは「決まり」って言葉で片付けるけど、
良く考えたら、それは第三界とかの決まりで、私の世界の決まりじゃないよ。
私が守らなくちゃいけない理由だって全然無いよ。
それなのにこいつは、私の嫌なことを私にさせようとする。
自分ひとりでやればいいのに、私まで巻き添えにする。
全然優しくないよ。ひどい子だよ。
だったら……)
確かに、堂島の件については、藍の思うとおりだった。
だが、藍の甘ったれた幼い精神は、全ての不都合の責任を獣に押し付ける形でエスカレートさせてしまう。
(大体、こいつが私に取り付いたから、私は変な風になっちゃったんだよ。
猫少女とか言われて。お友達みんなが離れてっちゃって。
そうだよ! こいつが居なければ、お兄さんだって私だけに優しくしてくれたはずなんだ。
こいつは私じゃないのに、私の体を使って私の真似して、お兄さんになでなでとかしてもらって。
それってすごくズルいよ!)
そして、棚の上げどころを見つけて興奮状態にある頭脳が、
(こいつが居なければ嫌なことは全部なくなるんだよ!!)
という短絡的な考えに行き着くまでに、さほど時間はかからなかった。
『ねえ、ねえ、起きてる?』
『……。』
『本当に寝てるの?ねえ?』
『……。』
藍は獣が睡眠中であることを確認すると、民家の玄関に向かい、靴を履く。
病院脇で墓を掘っているであろう、神楽の元に駆け寄るために。
(神楽ちゃんに全部話して、こいつを私から取ってもらおう。
もし取れなかったら、やっつけてもらおう。
死んじゃっても第三界に還るだけだって言ってたし。)
(それから神楽ちゃんに、ヤマノカミっていうやつもやっつけてもらえば、
お兄さんも安曇村も呪われないで済むよ!!)
藍は神楽の都合も能力も何一つ考えず、自分勝手で都合のいい未来予想図に頬を緩める。
神楽は優しい人だ。
自分のお願いを全部聞いてくれるに決まっている。
……幼く危険な思い込みを胸に、藍は玄関を後にする。
藍が玄関から渡り廊下に出た時だった。
パン!!
ブシャアアアァァァッッ!!
乾いた破裂音と、得体の知れない発泡音が耳に届いたのは。
その音は、間違いなく病院の待合室から聞こえて来ていた。
「な、なに!?」
出鼻を挫かれ狼狽する藍の言葉に呼応して、心の奥から、舌足らずな声が響く。
『昼の放送までに単独行動を取らないと死ぬことになるって、警告のお姉さんが言ってたょね。
……今のは多分鉄砲の音だょ。』
響く銃声に身の危険を感じた獣が、目を覚ましていた。
「うそ……どうして? 神楽ちゃんが居るのに!?」
『神楽も無敵って訳じゃないょ。あいつの気配は、病院から感じない。
たぶん、逃げたんだょ。』
「だって神楽ちゃんは守ってくれるって言ったよ?
逃げるなんて、そんなはず絶対にないよ!!」
『じゃあ死んだんだょ。
それよりも、これが主催者側の介入なら、わたしたちもターゲットだょ。
……逃げるょ。』
「ダメだよ!絶対神楽ちゃんが守ってくれるから、じっとしてようよ。
逃げちゃったら神楽ちゃんに守ってもらえなくなっちゃうもん!!」
『……。』
現実を直視せず、駄々をこねる藍を見かねて、獣は主導権の奪取を試みる。
宿主・藍の人格をそれなりに重んじている獣なので、強奪は滅多に行わないのだが、
正体を出せないこの時間帯での判断の遅れは、死に繋がりかねないという緊急時ゆえの強権発動だった。
しかし。
(なんで!? 浮上できないょ!?)
獣は主導権を握ることが出来なかった。
藍に今までにない強い意志で浮上を阻害されたからだ。
それは、阻害というより拒絶だった。
また、浮上の拒絶以上に、獣そのものの存在に対しての拒絶感が強かった。
獣は気付かぬうちに藍と自分との間に深く掘り込まれた、溝にたじろぐ。
(神楽め……藍を誑かし)
獣は心の中で溜息を付く。
『……解ったょ。
じゃあ、危険が去るまで隠れてょうょ。』
『うん、神楽ちゃんが来るのを待とう。』
獣は不倶戴天の天敵・天津神にこれほどまでに傾倒している藍に怒りを覚えつつ、
心の奥底から藍の心を注意深く観察する。
主導権を取って代わる為の隙間を見つけるために。
(1日目 14:10)
『静かになってからだいぶ経つね……』
『それに、争いの気配ずっと消えたままだょ。
そろそろ外に出てみょうょ?』
『うん。』
キッチンシンクが内側から開き、中から藍が這い出てくる。
彼女は、そろりそろりと足音をたてないように民家の玄関へ向かい、
渡り廊下の陰から病院の様子を伺う為に顔を出すと……
目線の先、病院の1階の窓。
明らかに藍の出現を待ち構えていた素敵医師が、藍に向かって手を振っていた。
「やっと出てきよったがか、松倉藍。
センセ待ちくたびれてしもうたがよ。」
「うぁ!」
出会い頭の衝撃と狂気の目を直視してしまったショックで、藍は一瞬、茫然自失となる。
獣は、その隙を見逃さなかった。
猛烈な勢いで浮上し、電光石火の主導権ジャックを敢行。
「あ、だ、だめd……」
「非常事態だからね。」
それを成功させる。
そして獣は、その勢いのまま、東へ向けて一直線に逃げ出す。
「あー、松倉藍。
いとさんが探しちゅう堂島な、港におるぞ。」
「な!?」
ぴたり。
背後からかけられたあまりにも意外で有用な言葉に、獣の足が止まる。
「そんな情報を流して…… おまえの目的は何?」
獣は鋭く貫く目線で素敵医師の真意を探りつつ、言葉を待つ。
「ゲームの円滑な進行と、そのための殺意の後押しがよ。」
シンプルな答えだった。
そして、納得の行く答えだった。
また、自分が堂島殺害を狙う限り、主催者組織は敵では無いと言うこともはっきりした。
「……情報、感謝だょ。」
藍は感情の篭らない礼を述べると南へと方向転換し、猫を感じさせるしなやかな足取りで南へと歩み出す。
その頬には、微笑が浮かんでいた。酷薄そうな。
「へひひひひ……」
素敵医師はハンカチを手に藍を見送りながら、喘息の発作のように笑い続けていた。
「病院組が完全分裂したがで、これにてお仕置きは完了やき。
さて、次は森の眠れる魔女か、灯台の女王様とそのペットなが。
どっちから行こうやかね……」
【藍】
【現在位置:病院 → 港】
【スタンス(藍):@神楽捜索 A獣封印・分離】
【スタンス(獣):堂島殺害】
【備考:獣が主導権掌握】