154 悦びの向こう側

154 悦びの向こう側


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そう、堂島薫は殺されねばならない。






(第1日目 PM11:35)

ほのめき揺らめく薄緑色の暈をその身に纏わせた満月の下、
藍は一人海を見ながら身を隠していたときのことを思い出す。
そして、両手で自分のか細い肩を抱き、少し身を震わせた。
もうすぐ、この世界ともお別れすることになる。
抱えた膝小僧に軽く額を押し当てて、静かに目を閉じた。
堂島を殺せば…。
波の音が聞こえる。
打ち寄せては全て洗いさらう波の音が聞こえる。
残酷に輝く月が、揺れる彼女の背を押した。



あのとき、獣としての勘が背中から光をこぼすあれには近いてはいけないと告げた。
だから暗がりで息を殺して時を待っていた。
暗くうねる海が月明かりを受けてきらきらと光るのをじっと見ていた。
やがて何ごとかわめきながら小柄な人影が駆け出していった。
あれは堂島ではなかった。
月明かりだけでははっきりと確認できたわけではないけれど、
堂島薫はもうふた周りほど大きいはずだから。
そのまま動かずに物陰で様子をうかがっていると、つづいて
なにやら大声で叫びながら堂島よりもふた周りほど大きい男がその後を追っていった。
あれも堂島ではなかった。
三つの気配、二つは消えた。
残るは一つ、
堂島薫は、いまも間違いなくそこにいる。
彼奴を屠れば、この住み慣れた第三界を去らなければならない。
立ち上がった藍はうつむき、少し顔を曇らせた。
月光を背に受けて藍の陰が細く長く伸びていく。
月は上天にてその身を大いに膨らませ、今にも落ちてきそうなまでに張り詰めている。


「堂島薫!」
岩陰から踊り出た藍は目前に迫った悦びへの高鳴る期待を隠さずに、舌足らずな声を響かせる。
「堂 島 か お る」
一音節ずつはっきりと切り離された軽やかで歌うような問い掛け、
虚をつかれた堂島は慌てて振り返り、
ニコニコと笑っている少女を見止めて怪訝な顔をする。
藍は獲物を見つけた悦びに体を大きく震わせた。
小さなこぶしを握り締め、気を取り直すように大きく深呼吸。
ついに来た!
ついにこのときが来た!
体の震えはまだ止まらない。
原始の欲望が体を駆け回る。
殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!
殺せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええっ!!!!
堂島薫を切り裂いて!その臓物を喰らわせろ!
獣が鋭い雄叫びをあげて、藍の体を激しく揺さぶる。
たとえ、この世を去らねばならぬとも、際限なく湧き上がるこの破壊の衝動に比べれば、
何をためらうことがあろうか?


「おねーちゃん、誰?おかーたまのお友だち?それとも、おとーたまのお友だち?」
ためらいがちに問いながらも、
震える手で懸命にグロックの照星を合わせようとする堂島に、
ウウン、と首を振って藍はさも愉快そうな笑みを浮かべた。
「じゃぁ、僕に何か御用?」
「覚えてないの、堂島薫。私はあなたのお友達だょ?」
「僕の…お友だち?うーん、どこかでおねーちゃんに会ったことあったかなぁ。」
少女の不明瞭な語尾は堂島をひどく混乱させた。
眉間に縦じわを刻み、警戒することも忘れて口ひげを撫でながら頭をひねる。
「思い出せないや。ごめんなさい。」
しばらくして、しょんぼりと答えた堂島に、
藍は闇夜に瞳を爛々と輝かせ、ニタリと笑う。
「ここからは遠い遠い世界に小さな村がありました。」
笑いを噛み殺すと、藍はよく通る声で話し始めた。


「人里はなれた深い山々の中にあり、清らな小川と緑豊かな森に囲まれたその村は
時の流れに取り残された小さな、けれども人々が日々幸せに暮らしている村でした。
今となっては人もまばらなその村には、
昔からの少し変わった言い伝えがありました。
曰く、
『月蝕の夜はよく吹雪く。
絶対に外に出てはならん、
吹雪と共に穂村山から下りてきた
ヤマノカミに喰われるぞ。』
そんな不思議な伝説の残る静かな村に、あるとき一人の男がやってきました。
その男はたいそう意地の悪い男で村の人々を困らせたり、
近所に住む猫たちをいじめたりといろいろな悪さをはたらき、
ある日、ついに村にあるたった一つの神社、穂村神社に火をつけて焼いてしまいました。
怒ったのは言い伝えにあるヤマノカミです。
男を懲らしめるため、手下の獣をその男に向かって放ちました。
それからというもの、暗い淵からやってきたその獣は今でも男を探し続けているということです。」
そこで一旦言葉をきると藍は顔を歪ませている堂島を見た。
「その村の名は、安曇村
男の名は、…堂島薫と言いました。」
少女の瞳が赫々と妖しく輝き、獣のそれのようにどろりとした光を放つ。
そして、死の宣告を下すかのように最後の言葉をそっと継いだ。
「墓守の獣はここまでお前を追ってきたょ?」


堂島は手にしていたグロックの照準を迷うことなく少女に合わせた。
顔には先ほどとはうって変わって、嘲り笑うようないやらしい笑みが浮かんでいる。
堂島薫は帰ってきた。
「ヒヒ、よく思い出せんが……お前はあの村の娘か?」
少し離れたところに立つ少女の目を視線で射抜き、
ゆっくりと引鉄にかけた指に力をこめた。
地味な破裂音をあげた弾丸は藍の頬をかすめて、
そこにうっすらと赤い線を引いて背後の闇に消えた。
「ヒヒヒヒヒ、あの村の人間なら儂のことが憎かろう?
だが残念だったなぁ。こっちには拳銃がある。そして…」
ふたたびグロックを構えなおす堂島の顔から笑みが消える。
「次は外さん。」
「ふふ、死ぬ前に思い出してくれてよかったょ、堂島?」
臆することなく堂島の目をじっと覗き込んで藍は言った。
頬の血を指先にとると、それを舐め、もう一度身を大きく震わせて、空を仰ぎ見る。
そして、薄く薄く笑った。
夜の闇よりもなお濃密な黒が滲みだし、彼女はその輪郭を失っていく。
「時は来たれり、だょ。堂島。」
「・・・・・・どういう事だ?」
闇の奥から聞こえる声があたりに木霊し、堂島の周りから急速に光が失せてゆく。
満ちたる月が欠け、にわかに蝕が始まる。


闇色の何かが満月をざっくりと裂きながら冒し広がっていく。
闇の虚ろな顎が虚ろな空を音もなく喰らう。
空は暗闇に飲まれ、大地は光を失った。
少女から溢れ出した地表を這う闇もどんどんと音もなく広がる。
堂島は声をあげながら、少女の闇を避け、まだ月明かりの届いている空間へ逃げこんだ。
背後の闇から足音もさせずに忍び寄るもののかすかな息遣いが聞こえる。
空気の動く気配だけが感じられ、それがますます堂島の恐怖をあおった。
息を切らせて走るうちにも蔓草のような背後の闇が伸びゆき、彼を囲んでしまう。
それでも堂島は闇に覆われていない空間に向けて一心不乱に走りつづけた。
それよりも速く闇は急速に広がり、やがて頭上の月の光も遮られてしまった。
音もなく、光もない真の闇が堂島を呑みこんだ。


「助けてくれ。何でもする。何が望みだ?金か?
それとも神社をもう一度作り直せば満足なのか、ん?
何でもしてやる。何でもしてやるぞ。ヒヒ、悪い話ではなかろう?
何だったら生贄の2〜3人も用意させよう。
後生だから、儂だけは、儂だけは助けてはくれんか?」
逃げることを諦めた堂島はヒューヒューと大きく息をしながら、闇の奥の動きを探る。
彼の提案が呼んだ獣の一瞬の逡巡を彼は見逃さなかった。
「そうだ。ヒヒヒ、話せば分かる。
落ち着いて話し合おうじゃないか。
何だ、何が欲しい?
何が望み……………………っっっ!?」
堂島の言葉が途切れる。
ゆるり、と獣が堂島の前に佇み、何かが押しつぶされる嫌な音がした。


「きぃ、貴様ぁーーーーーーーっ!
うぐぅぁ、ああぁ…、儂の、儂の足がぁぁぁぁっ!?」
右足の付け根をあたりをまさぐる左手はむなしく空を掻く。
もがき絶叫する堂島をまるで意に介することなく、闇の獣はゆるりと動いて堂島から離れ、ふたたび闇の中にその姿を溶かし込む。
頬をなでる生ぬるい風が、堂島の鼻にむせ返るような錆びた鉄の匂いを運ぶ。
「どこだっ、どこにいる。
来るな、来るな、来るなぁっ!」
堂島は闇の奥に潜んで、こちらをうかがっているものに対してわめきちらす。
口の端から泡を吹きこぼしながら、
無闇に両手を振り回して続けざまに数度引鉄を引く。
乾いた銃声が夜のしじまに響き渡るが手ごたえはなく、
マズルフラッシュをも飲み込む闇の向こうでなおも何かがゆるりゆるりと蠢く。
堂島にも分かっていた、奴は自分を一息に殺す気はない。
子供が蝶の翅を楽しげにもぐように、
自分を弄んでこの虐殺を楽しんでいるのだ。
ふたたびゆるりと闇が動き、堂島の頬を撫でてゆく。
右の頬の肉がこそげとられても、まだ堂島が死ぬことは許されない。


カチッ、カチッ
次に引鉄を引いたとき空しい金属音が返ってきた。
「ああっ、あああああぁぁ。助けてくれ、わしが一体何をしたというんだ?」
せめてもの抵抗にマガジンが空になった拳銃を気配に向かって投げ捨てて頭を抱えて叫ぶ。
恐怖にあてられた堂島は涙と汗と鼻水でグチャグチャになった顔を引きつらせて笑い出した。
「儂は誰だ?儂は堂島薫だ。
堂島薫は全てを手に入れた、地位も金も名誉も権力も女もッ!全てだッ!!
何もかもっ、望んだものは何もかもっ、全てッ!
ヒヒヒヒヒ、その儂が、その儂がぁッッ!!!!」
気が狂ったかのように哄笑し、吼えたける堂島の動きが不意に止まる。
汗が一筋、たるんだ頬の上をゆっくりと通り抜けていった。
恐る恐る振り向くとその先には、
闇色の塊が、その吐息が堂島の耳にも聞こえるほどのところまできていた。
もう声も出なかった。
そしてそれが代議士堂島薫の最初で最後の最期の光景だった。








藍は岬の突端に一人座してじっと海を眺めている。
光を躍らせながらゆらゆらと揺れる水面をたった一人で眺め、鼻をすすった。
彼女の小さな背中を月光だけが見守っている。
堂島の死とともに急速に月蝕は終息した。
頭上の虚空にはぽっかりと世界の向こう側への扉が開いている。
藍は、重苦しそうに髑髏の眼窩のようなそれを見あげる。
(さようなら、おにーちゃん。
さようなら、明日菜。
さようなら、悠夏お姉ちゃん、雨音お姉ちゃん)
空を見あげる双の瞳にうっすらと涙がこみあげる。
帰還すれば、おにーちゃんたちのことを忘れてしまう。
思い出をなくしてしまう。
このやりきれない悲しみさえ解さないただの獣になってしまうことが耐えられなかった。
ひっそりと、世界から消えていくのが、
自分が消えても誰ひとり悼んでくれないことが、たまらなかった。
人知れず、消滅してしまうのは、嫌だった。


藍は声にならない嗚咽をかみ殺す。
(いやだょ。
還りたくなんかないょ。
ずっと…
ずっと、ずっと、みんなと一緒にいたかったょ。
ただの獣になんかにはもう、戻りたくないょ。)
蜻蛉の翅のように透き通ったまるで質量を感じさせない藍の体がすっと宙に浮かび上がり、
何かに吸い寄せられるかのようにどんどんと昇っていく。
(でも……)
愛しい人たちの顔が次々と胸のうちに浮かんでは消えていく。
誰一人として見守るもののいないなか、高く、
どこまでも高く冴え渡る夜空のその向こう側に向かって上り詰めてゆく。
今の今まで立っていた島は遠ざかり、
眼下に広がる果てしもない海の只中に埋もれてしまった。
海と星たちの間を一人きり孤独に漂う。
泣き濡れてくしゃくしゃの顔を隠すこともしないでしゃくりあげる。
溢れ出した涙はもう、とまらなかった。
「でも、還らなきゃ。」
藍が目を閉じると、その姿はあっけないほどにすっと消えてしまった。
空から零れ落ちた涙がひとしずく、大地へと吸い込まれるように舞い落ちていった。


【7 堂島薫:死亡 】
【19 松倉藍:消滅】


―――――――――残り 18



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