148 月下美人、咲いた。
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(17:40)
「神条さん」
か細く震える声が、男の名を呼んでいた。
「神条さん、ご無事ですか……」
紫堂神楽が路上で仰向けに横たわったまま繰り返す。
先ほどの戦いの傷跡は、惨々たるものだった。
鼻からしか流血していないものの、全身を余すところなく打撲している。
鬱血が酷く、すでにドス黒く変色している部位も多い。
顔などは、いまや倍近くに膨れ上がっている。
体中が熱を持っている。
痛みのない部分など何処にもない。
常人ならその痛みのあまり悶絶するか、気絶しているだろう。
だが、神楽にとってはそんな肉の痛みより、真人を己が傷つけてしまったという
心の痛みの方が遥かに勝っていた。
「神条さん、ご無事ですか……」
繰り返す神楽の言葉に、返事は返ってこない。
神楽は真人が返事を出来ない状態にあることを悟り、彼へ近づこうと身を起こす。
膝を立てては崩れ、伏す。
それを4度繰り返した。
立ち上がることを諦めた神楽は、匍匐のまま真人に近づく。
真人は神楽のすぐ傍にいた。
彼もまた仰向けに倒れていた。
おそらく肩口から落下したのだろう。
左肩がいやな角度に曲がり、首筋が腫れあがっている。
その脇まで神楽が達したとき、真人の体が海老のように跳ねた。
続けて、激しい痙攣が始まる。
白目を剥き、泡を吹き出す。
全身の筋肉が収縮と弛緩を間断なく繰り返している。
「いけない。急がないと」
手遅れになる。
神楽は続けて言いかけた不吉な言葉を飲み込む。
パニックを起こしそうな心を深呼吸で鎮め、指先に意識を集中する。
そこに集めるのは、青く澄んで、澱みなく流れる涼風。
命の息吹。
今まで何人もの怪我人を回復させた、大宮能売神の治癒術を施す―――
しかし、青白く温かな光を宿すはずの掌は、ただ汗を握るばかりだった。
びくびくびくびく!!
真人の痙攣は益々激しさを増す。
神楽は何度も深呼吸する。
もっと深く、もっと強く、集中しなければ―――
ぐるぐる。耳の奥で重く軋み回りだす三半規管。
素敵医師の置き土産は未だ深く神楽を蝕んでいた。
加えて、打撲傷の熱と痛みが悪しきシンクロを引き起こす。
堪えきれずこみ上げる吐き気。
いかな筋金入りの神楽とて、この状況下で精神のコントロールが出来よう筈も無い。
神楽は今まで感じたことのない焦燥感に身悶えする。
「お願い!! お願い!! お願い!!
止まって!! 止まって!! 止まって!!」
神楽は頭上の月を振り仰ぎ、痛切に祈った。
神の化身たる彼女が一体何に祈るというのか?
それは神楽本人にもわからない。
ただ、今の神楽は祈らずにはいられなかった。
より大きな、より力のある何かへ。願いよ、届いて。
だが、悲しいかな。
ここに君臨する何かは、慈悲心など持ち合わせているわけがない。
神楽のこの必死な思いをおかずに、子供じみた笑い声を響かせているに違いない。
やがて真人の痙攣はひきつけへと変わり、ひきつけは硬直に変わり。
神楽が何もしてやれぬまま、その動きを止める。
「……」
神楽は鎮痛に黙り込む。
治癒術はあくまで治癒術であり蘇生術ではないので、絶命したものまでは救えない。
仮に今、神楽の力が復活しても、もう手の施しようは無い。
万事休す―――
がくりと首をうなだれた神楽が、大きく息を吸った。
吸った。
吸った。
胸いっぱいに、息を吸い込んだ。
いつも彼女が精神集中や冷静さを促すために使う深呼吸とは違っていた。
そして、その息を吐くことなく止め。
誰にも赦したことのない清らかな唇を、躊躇うことなく真人の唇に重ねた。
神楽は真人に息を吹き込む。
吹き込めるだけ吹き込むと、今度は体勢を変え、真人の胸部に両手を重ねる。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。体重をかけて押す。
心肺蘇生法。
神楽は諦めていなかった。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
5回。
10回。
15回……
神楽はその作業を繰り返しながら、思う。
人を救うということは、こんなにも難しいことだったのか。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
命というものは、こんなにも重いものだったのか。
命が尊いとはこういうことか。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
なんという軽い思いで、命は大切であると口にしていたのだろう。
なんと愚かに、神人の力に溺れ、奢り昂ぶっていたのだろう。
息を吹き込む。
心臓を圧迫する。
35回。
40回……
……………………。
(20:00)
神楽は、未だ人工呼吸と心臓マッサージを繰り返している。
徐々に冷えを増す夜風が、真人の体に残る熱を無情に運び去ってゆく。
もう、諦めよう。
第三者がいれば、そう言うに違いない。
だが神楽は諦めていなかった。
諦めるわけにはいかなかった。
何回目の挑戦になるだろうか。
神楽はまた大きく息を吸い込み、真人へ唇を寄せた。
その時、風を感じた。
真人の唇が揺れて見えた。
神楽は息を止め、耳を寄せてみる。
………………すー
細くて弱々しいが、確かな呼吸音が聞こえた。
真人の胸がゆっくりと上下動をはじめる。
神楽の五体が喜びに震える。
神の奇跡を起こせぬ神楽が、人の奇跡を、そのひたむきな努力で呼び寄せた。
真人が目を覚ました
彼の頭は、神楽の胸に抱かれていた。
真人は、自分の命が神楽に救われたのだと、肌の感覚で理解する。
憎しみは消えていた。
神楽の左目が潤む。
白糸のような涙が頬を伝い、真人の頬にぽたりと一滴、零れ落ちた。
その涙が、真人の心に沁みる。
ただ沁みた。
改心などという理性的な現象ではない。
真人の心の深い部分、狂気の分厚い城壁で覆っていた裸の心に、神楽の心が沁み入った。
真人もまた、涙を流した。
なぜだろうか。
自分が泣いている理由がわからない。
頭が痺れて考えが上手くまとまらない。
いや、考える必要などないのではないだろうか。
優しく静謐な時を、あるがままに受け止めるだけで。
「あり……がと……う」
真人が呟いた。
考えて紡いだ言葉ではない。
無防備になった心の底から、自然にこみ上げてきた言葉だった。
その言葉に、神楽の唇がやさしい微笑を形作る。
真人はその顔を見て息を飲む。
右頬は風船のように腫れあがり、右の眼球が出血で真っ赤に染っているというのに。
鼻は団子のようにひしゃげ、血液と泥に塗れているというのに。
月の淡い光が、凄惨な陰影を与えているというのに。
真人にはその顔を、知り得る全ての女の中で一番美しい顔だと感じた。
崇拝に近い感動が、動かぬ真人の体を震わせる。
その顔が。
―――次の瞬間、鮮やかな血の花を咲かせた。