100 Phantom of Nightmare
100 Phantom of Nightmare
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『暗殺』とは純粋な技術である。
『格闘技』のような精神面の修練を持たない―――単純に殺す為の技術。
そこには美学も、感傷も、誇りも存在しない。
ただ殺意と結果、それだけが存在できる世界。
あらゆる手段を用いて、標的の生命活動を停止させる為だけにある世界。
その世界の頂点に立つ少女―――望まずとも、そこに立たざるを得なかった少女。
亡霊の如く姿を現し、亡霊の如く消える。
故にその名は、ファントムと呼ばれた。
(一日目 13:34 病院 待合室)
アインはゆっくりと重心を左足に移動させ、姿勢を立て直した。
既に右足は殆ど麻痺し、棒を一本括り付けられたような感覚しかない。
「えっと、それじゃあ行きますね」
遙は恥らいつつそう言うと―――アインの視界から消えた。
「!?」
次の瞬間、彼女の眼前に遙の笑顔があった。
「(早っ……!?)」
頭で理解するより早くスパスの銃身を両手で持って右に掲げる。
キィンッ!
衝突音。
アインの首筋から数cmの所で止められたメスが銃把に食い込んだ。
「凄い……!流石アインさんですね!」
遙は心から楽しそうに笑った。しかし、その手は引く事無く更にアインに向けて
押し込まれてゆく。
「(この力……!?)」
自分を押すその力にアインは驚きを隠せなかった。
確かにアインは小柄だがその筋肉は一片の無駄なく鍛え上げられている。
並みの成人男性位なら軽く投げ飛ばし、その背骨を折る位はできる程に。
手負いの身とはいえ、平均以下の体力の持ち主の遙に押し負ける筈は無い。
だが、今こうしてアインが感じる重圧は成人男性のそれ―――否、それ以上であった。
ギチ……ギチ……。
数ミリずつ、均衡が崩されてゆく。
「どうですかアインさん?私、こんなに力持ちになったんですよ」
腕にかなりの力を込めている筈なのに、遙の明るい表情には変化が無い。
それどころか、まるで親に自慢する幼い子供のように一層嬉しそうになる。
その笑顔がアインを更に苦しくさせる。
プチ……プチ……。
遙の腕から音が聞こえた。何かが次々に切れてゆく音。
彼女の筋肉組織が破壊されているのだ。
(筋力増強剤まで投与されているっていうの……!?)
彼女の向こう側にいるであろう「裏方」は余程薬が好きらしい。
許すわけには行かない、絶対に。
だが、そこにたどり着くためには……遙を止めねばならない。
「フッ!」
アインは上体を後ろに反らし、一瞬腕の力を完全に抜いた。
「ええっ」
肩透かしを食らい、大きく右に揺らぐ遙。
「………ッ」
とっさにくるりとスパスを回転させ、銃身で遙の膝をすくいあげる。
骨を砕かない程度に押さえて―――
「えいっ」
「!!!」
しかし、遙の反応は更に早かった。
崩れた姿勢から左手だけを強引に引き戻し、メスを一閃させ、
「クッ!?」
先端をアインの右上腕に深く食い込ませる。
こてん。
そのまま頭から床に転がる遙。
「(ぽりぽり)ハハッ……転んじゃった……」
呑気に頭を掻きつつゆっくりと起き上がろうとする。
一方アインは苦痛に顔を歪ませつつも銃身の方向を変え、強く床を叩いた。
同時に左足をステップさせ、遙との距離を僅かながら開ける。
瞬間、ある物が彼女の視界の端に入った。
「………!」
悲鳴を挙げる右腕を無理やり掲げ、左手でスパスのスライドを引く。
手に響く装填の感触。
それが収まるのを待たず、アインは引き金を引いた。
ドゥゥンッ!!
「ッッ!!!」
反動の衝撃に、危うく意識が飛びそうになる。
だが、スパスから放たれた散弾は遙よりかなり手前の壁に打ち込まれた。
「んしょ……焦ってるんですか?アインさん。嬉しいなぁ……」
にこっ。
立ち上がり、再度突撃しようとする遙。
だが、
……………ブシャアアアァァァッッ!!!
刹那、周囲は真白な煙に包まれた。
「わあっ!?……ケホッ、ケホッ!?」
完全に不意を突かれ、激しく咳き込む遙。
見れば、破壊された消火器がホースを暴れさせつつ消火剤を噴出していた。
化学薬品の嫌な匂いと刺激が遙の喉を焼く。
「ケホッ!……ゲホッ!」
―――十数秒後。
次第に噴射の勢いが弱まり、視界が晴れてゆく。
「コホ、コホ……もう、逃げちゃうなんてひどいなぁ……」
既に先程の場所にアインはいなかった。腕からのものであろう血痕が点々と
残り、数m先の階段へ続いている。
「それじゃ、行きます♪」
先の転倒で足をひねったのか、少しひょこひょこした歩き方で遙が進む。
正直、遙はまだ不満だった。
何故かアインは手にしていたショットガンで自分を狙わなかった。
(……手加減、されてるんだ)
それが悔しい。
(まだ……『遥なんて、手加減で十分』って思われてるんだ)
それが悲しい。
(……悔しいな。もっと頑張らなきゃ)
あの人が全力で向かって来れる程に。本気で自分を殺しに来る程に。
そうしなければ自分は何時までも役立たずのままだから。
薬漬けの脳が、歪んだ熱意を彼女に送る。
「……待ってて下さい、アインさん」
小さく呟き、階段にたどり着く。
血痕は、その大きさを増しながら階上へと続いていた。
(13:37 病院二階廊下)
「クッ……!」
無限に思えた階段を登り切り、アインは右腕の傷に目をやった。
傷口は鋭いものの、幸い動脈には達していないようだ。
しかし……出血ばかりはどうしようもない。
(血が……足りないわね)
あと、どれだけ失血すれば意識を失うだろう?
おそらく致死量まで1000ccも残っていない筈だ。
既に階下からは遙の足音が聞こえていた。音の不規則さからして足を痛め
ているようだが、それでも確実に登ってくる。
「………ッ!」
(まだ、持ちこたえて……!)
自分の体に頼みつつ、スパスを杖代わりにずるずると動く。
彼女―――遙を殺す方法ならば無数にあった。
真正面から突っ込んでくる遙にスパスを撃つ。
メスを持つ手を流し、彼女自身の喉に突き立てる。
背後を取り、頚椎を破壊する。
確かに遙の肉体能力は爆発的に高上しているが、その他の注意力等は以前と
変わる所が無い。
今のアインでも、少しのフェイントでも絡めれば難無く殺す事はできる。
―――だが、彼女を無力化する事は?
(……駄目よアイン。それができる程の体力は、貴方には残っていないわ)
彼女の戦闘を司る部分がそう警告する。
「……ええ、分かってる」
わざわざ口に出す必要は無い。
だが、何か口にしていなければ今にも体が崩れ落ちそうだった。
「……分かってる」
もう一度言う。
「……いいえ、分からなくちゃ……いけない」
そうしなければ、自分が殺される。
自分が遙を殺さなければ、遙に自分が殺される。
だから、分からなければならない。
「だから、私は遥を……」
言ってしまえば、形になる。
「……私は、遥を……」
言ってしまえばいい。そうすれば、迷いは消える。
今までがそうであったように。
「……………」
アインの口がゆっくりと動き―――
「……嫌」
―――拒絶の言葉が、発せられた。
「私は……殺したくない……!」
一体、どうしてこうなったのだろう?
自分が校舎の前で彼女を抱え上げた時から?
目覚めた彼女の前に、返り血を浴びたナイフを見せてしまった時から?
「弱い者は不用」と彼女の前で言い切ってしまった時から?
―――ひとつだけ言える事は、もう取り返しがつかないという事だ。
「……アインさ〜ん……どこですか〜?」
その時、アインの背後から遥の声が聞こえた。暖かく、柔らかい声。
「……………ッッ!」
その声から逃れるように、アインは更に速度を上げる。
「私は、殺したくない……」
その為に、アインには必要な物が3つあった。
一つは、数分の時間。
一つは、大量の血液。
一つは、窓。
「……殺させない」
その条件が揃う場所まで、あと少し。
アインの眼には、未だ絶望は無かった。